▼【飯豊町】中獅子踊りのご紹介【無形文化財】

■平成25年度「中獅子踊り」
 8月14日に、飯豊町中地区で「中獅子踊り」が公民館前や広場など計5ヶ所で行われました。伝統ある中獅子踊りは、中獅子踊り保存会の方々によって披露され、メンバーは大人約23名、子ども約18名、合計で約41名が在籍しています。
 今年から新たに小中学生も参加し、活気ある中獅子踊りとなりました。当日の模様をご紹介します。
◆中獅子踊り
日時:平成25年8月14日(水)
巡演順番:中地区公民館前など計5ヶ所
(沖公民館→新田自治館前→中西公民館前→中北公民館前→中公民館前)
◆三匹の獅子(雄獅子・雌獅子・友獅子)

三匹の獅子(雄獅子・雌獅子・友獅子) 
雄獅子

雌獅子 
唄と笛に合わせて踊る
 雌獅子を中心にして、雄獅子と友獅子が守っている形で踊り、服装は雄獅子と友獅子は同じですが、顔面は三様です。
 獅子役は男の子で、なるべく年齢、身長が低ければ低いほど良いとされています。中獅子踊りに参加する子どもは、初めはこちらの獅子役から始めます。
◆踊り子について

“花吸いの踊り“獅子と花吸いの共演 
中立ちが踊る@

中立ちが踊るA 
花吸いと中立ち@

花吸いと中立ちA 中立ちが踊るB
 中獅子踊りは、「前唄(まえうた)」「長唄(ながうた)」と呼ばれる歌を歌いながら踊ります。中獅子踊り保存会の大人の方が歌い、それに合わせて子ども達が獅子役、太鼓役となって、踊ります。
・中立ち(なかだち)
 花笠の腹太鼓を持っていて太鼓を打ち鳴らし、盛んに左右に行ったり来たり、太鼓を打ちながら動き回ります。
・花吸い(はなすい)
 顔を花笠で覆って女装した数人が獅子の後方で太鼓を打ち鳴らします。獅子と花吸いが共演する“花吸いの踊り”は、獅子が花にたわむれる形、獅子が花のみつを吸う形があります。中立ち、花吸いは、獅子の経験を経てから担当します。
・笛吹き
 若干10人程度を理想とします。当初は、笛吹きも男の子が担っていたそうですが、近年の人出不足と存続の関係から、女の子も笛役に参加しています。
・唄い手
 前唄、長唄とよばれる唄を歌います。唄に合わせて獅子が踊ります。若干7〜8名程度を理想とします。唄い手は大人の方が担当します。
・まとい持ち
 色男(いろおとこ)と称する者が1人持ちます。中獅子踊りのまといの特徴として、桜の花が付いています。
・面すり
 踊り子の先だちをしたり、踊りに一層栄をもらせる役のものです。
◆輪くぐり(雌獅子狂い)

雌獅子狂い“輪くぐり”@ 
雌獅子狂い“輪くぐり”A
 中獅子踊りのメインとなる“輪くぐり”です。“輪くぐり”は雌獅子狂いとも呼ばれ、輪の中をくぐります。
―七つから八つまでつれて雌獅子をば此れのお庭にかくしとられた。
何と雌獅子がかくしてもひとむらすすきを分けてたずねる。
天竺から岩がくずれかかるとも心急がずあそび獅子ども
(中獅子踊り 長唄より)

 本来、獅子(獣)は火を恐れますが、怖いものに立ち向かっていく姿勢を表しているとされています。中獅子踊りの“輪くぐり”ですが、火をつけての“火の輪くぐり”を行った年もあったそうです。
◆夜公演

夜の中獅子踊り@ 
夜の中獅子踊りA

夜の中獅子踊りB 
夜の中獅子踊りC
 日が暮れてからの中獅子踊りも風情があります。各公民館前を巡演し、夜の部は中北公民館前、中公民館前で踊ります。
灯りに照らされ、踊る姿は勇敢で美しいです。

―かくして前の庭・後の庭の唄と踊りが続けられ、終わればみち笛により、次の踊りの庭へと移動するのです。
豊作を祝う喜びに満ちた村人達は、その後を追って、その次、その次の庭へと、そして夏の夜は次第に更けていくのであります。
みち笛は、夜空の遠くへ流れ去っていきます。
お互いの喜びを交わすが如く・・・・やがてそれも消えて三三五五に、うちつれた人々は、やがて我が家へと急ぐ―‐-・・・・・・。
(中獅子踊り 資料より)

昔から、夏の夜の風物詩として、中獅子踊りが踊られていたことがわかります。

■中獅子踊りの言い伝え
―獅子踊り連中の言い伝えは、何年も何年も続いて、夏の夕涼みや「お盆」の頃、或いは豊年の喜びを共に分かちあう秋祭りの頃、その昔の古きよき時代の思い出にひたる折々に、ややもすると失われがちな風物詩の中から、語り踊りつがれている「中獅子踊り」の由来をご紹介します。
(中獅子踊り 資料より)

 いにしえの日本に、まだ米のなかった時代、唐・天竺には稲穂がたわわに実っていました。日本の神々は、狐をお使いになり、稲穂をとり入れることを考えつかれました。
 そこで狐は使命をおびて、唐・天竺に出かけましたが、唐・天竺では稲穂を国外に持ち出すことを禁じていたため、狐は仕方なく、こっそり稲穂をくわえて逃げ帰ったのです。



中獅子踊りイメージ
 唐・天竺ではそれを知って、獅子三匹に命じて、狐を追いかけさせました。 狐は、かろうじて日本にたどり着きましたが、獅子が追ってくるので、稲穂を土の中に埋めて、目じるしに葦を立てておいたのです。
獅子は、ついに狐に追いかけず、稲の穂をとりかえせないまま、それに、国へ帰ることもできず、そのままその土地に住みついてしまいました。哀れな獅子は自分を慰めてくれる人もなかったので、毎年桜の花の咲く頃、踊りによって我が心を慰めたと言われています。

まといには桜の花
 そのために、そちらのまといの上の方には桜の花が付いています。 それ以来、獅子を慰めるために、その踊りに加わる人が、毎年に多くなって相当な人数になったようです。また、狐の埋めた稲の穂からはりっぱな稲がはえ、稲作が日本各地に伝わったと言われています。
 それを起源として、狐の稲穂にちなんで地域の豊年満作を祝う踊りとなり、獅子踊りが始まってから約700年経つと言われています。
 中獅子踊りはこのようにしてできたと言われています。以前は、町内の各地区ごとに獅子踊りがあったそうですが、今に受け継がれているのは中獅子踊りだけとなってしまいました。
■歴史
 豊年満作を祝うための獅子踊りというのは今の事で、そもそもの起源は明確ではありませんが、今から600〜700年前と言われています。
昭和33年新調の獅子踊用具
 現在踊られている「中獅子踊り」はいつ頃から踊られていたかは、明治時代からはあったとされています。
 こちらの道具からも昭和33年に新調されておりますので、それ以前からも盛んに踊られていたことがわかります。
 「踊り宿」を中心にして、踊りのグループがつくられ、唄や踊りは次々に代々の人に伝えられて、今日に及んでいるのです。かつては「踊り宿(宿元)」制があって用具類一式を船山家に保管し、その庭でシシ踊りを披露したというが、現在はその制度はなくなっています。
 大分盛んであった時代の獅子踊りは、各字毎にあったのですが、一時は、戸長(かつての区長)に禁止された時代もあったと言い、その理由はさだかではないですが、仕事もしないで踊ってばかりいては困る、と言うことだったらしく、踊りの道具の全部をとりあげられている背景もあります。
 明治19年10月15日の記録では、踊り宿は船山荘四郎の名であり、獅子は、旅職人最上天土と言う獅子細工人の手によったものとなっています。


○取材協力    中獅子踊り保存会(会長舟山新二郎さん)
○写真提供    中獅子踊り保存会





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