▼令和7年度 上杉文華館「謙信・景勝に手紙を出す」B
令和7年度の上杉文華館は「謙信・景勝に手紙を書く」と題して、国宝「上杉家文書」などを展示します。 戦国時代、書状は一定の規則に則って書かれました。このような規則を書札礼といい、差出人と受取人の関係が反映されていました。それをまとめた書札礼書 も作られました。そこには差出者の社会的地位に応じた規範が示されています。その適用は厳密であり、ゆえに実際の書状の書き方から両者の関係を知ることも できます。東国の大名間では、差出は実名に花押、宛名は名字に殿の尊称という表記が、原則的に対等な関係を示していました。特別な内容や礼状などでは、宛名に「謹上」のような上所、差出の実名に官途や姓などを加えて厚礼とし、より丁寧な気持ちを表すこともありました。 永禄4年(1561)、謙信(長尾景虎)は上杉憲政から名跡と関東管領の地位を譲られ、上杉氏を名乗ったことはよく知られています。これによって謙信、景勝 はその地位に応じた書状を受け取ることになりました。宛名には、「上杉殿」や「上杉弾正少弼殿」などの名字を冠したもの、「山内殿」や「越府」、「春日山」 などの地名を記すもの、また本人ではなく、報告を求めて側近に宛てたものなどがみられます。これらは差出人の立場によって選ばれますが、その基準をみていくことで、謙信や景勝の地位、諸大名家の権力構造、東国社会の変容などがみえてくると思われます。2025年度はこの解明に取り組んでいきます。 第3回《山内殿T…関東》 【展示期間】5月29日(木)〜6月24日(火) 展示目録はこちら第三回からは、「山内殿」という表現が使われる地域に着目します。今回は関東です。関東では、越相 えっそう 同盟における北条氏を除くと、北条氏と対立していた北 関東・房総の領主が使用していました。これらは北条氏と戦うため、上杉氏の軍事力に期待した領主たちでした。それに応じて謙信が、関東出兵を繰り返したの はよく知られています。 しかし、「山内殿」と記せたのは、室町時代以来、大名と認識された領主や足利氏一族らに限られ、その下の社会的地位にあった国衆らは、ほとんどが「越府」 という表現を用いました。「山内」を用いても「山内江」と表記しました。それは一五世紀前半に形成された、関東公方足利氏を頂点に関東管領山内上杉氏・足 利氏一族吉良 き ら 氏を上位とし、ほかの上杉氏一族と大名(外様)、そして国人 こくじん (国衆 くにしゅう )と続けて編成された関東の礼的秩序に強く規定されていました。 ▼ コレクショントーク 日時:6月1日(日) 14:00 場所:常設展示室 上杉文華館 ※入館料が必要です。 令和7年度上杉文華館展示スケジュールはこちら 皆さまのご来館を心よりお待ちしております。 【お問い合わせ】米沢市上杉博物館 0238-26-8001
2025.05.29:denkoku
→トップへ
(C)置賜文化フォーラム
powered by samidare
system by community media (Free CMS)