【転職成功物語13】不思議な「縁」を感じました。:キャリアクリエイト|求人情報
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【転職成功物語13】不思議な「縁」を感じました。
2011.07.07:Copyright (C) 佐藤広一の《山形の転職情報銀行》
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今回は転職が決定したのが昨日!という、季節柄暑々(違うか!)の物語です。
寄稿をお願いしたのが昨日の夕方。
快く引き受けて下さったAさんは、今回が3社目という転職歴ですが一社目からの心の動きを丁寧にまとめてくださいました。
歴代トップ級の超大作です!
自身に重ねるといろいろな気づきを得られます。
Aさん本当におめでとうございます。
この山形で、これからも末永く宜しくお願いします。
以下、原文のまま、お送りいただいたメールの内容からご紹介します。
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長文、駄文、申し訳ございません。今の気持ち、前職で希望退職に応募した時からの経緯を含めてまとめてみました。
思い返せば、山あり谷あり。思い悩んでばかりですが、それぞれの会社でとても多くのものを学んだんだなと、思えるようになりました。
山形を離れ、都会を十分経験したからこそわかる山形の良さ。
私が山形に戻るのは、やはり、今なのかもしれません。
これからは、仕事だけではなく、親戚づきあい、隣組などのご近所づきあいにも積極的に顔をだしつつ、人の輪を広げてゆきたいと思います。
引き続き、よろしくお願いいたします!
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最初の転職は2008年です。約8年勤めた企業を希望退職に応募する形で退社しました。山形県内に本社を置く企業の中では最大規模の歴史ある会社です。そのなかで、現場重視の経理を徹底的に叩き込まれました。会社全体の経営計画策定まで任せていただいたところで、新たな環境へ移ろうと決意しました。「開示業務など、より上位組織での経理業務に携わりたい。」これが退社の理由でした。1年間の親会社への出向経験が自分を動かしたのです。
ただ、今になって思うことは、この8年間で得た経験が、今の自分の支えになっているという事実です。先輩から時に厳しく、根気強く、指導していただいたことは、私の人生の宝となりました。2001年9月11日。あの日。深夜まで数字が固まらず、悶々としていた自分に付き合って、居残ってくれた先輩の温かい後ろ姿を忘れることは出来ません。私もそういう先輩でありたいし、あらねばならない。そう思います。先輩の厳しい指導の裏にある温かさが、今になってわかるようになりました。
転職とはなにか。恥ずかしながら、当時の私は、その進め方をまったく理解していませんでした。ただ、希望退職での退社であったことが救いでした。会社が契約した再就職支援会社からのサポートを受けることが出来たからです。時おりしもリーマンショックの只中。本当に道はあるのかと不安になりました。そんな中、担当のアドバイザー氏から、「転職を専門に支援するエージェント」の利用を薦められたのです。その一つが「キャリアクリエイト」さんでした。そのときは、残念ながら、お世話になることが出来ませんでした。しかし、このときの記憶が、後に大きな「縁」をわたしにもたらしてくれることになります。そのときは、まったく想像できませんでしたが。
山形での再就職をあきらめ、大手エージェントに求職登録し、全国に視野を広げました。遠くは北九州小倉。某製鉄メーカーの子会社の面接を受験。「明日面接に来てくれないか。」JTBに飛び込んで、急いでチケットを入手。面接に向かうため、生まれて初めて飛行機に乗りました。自分の世界が大きく広がってゆくのを肌で感じました。ゲーム機最大手のメーカーでは、東京青山の本社で最終面接にまで臨むことができました。不合格ではありましたが、偉大な先輩の足元にも及ばないと思っていた自分のスキルが、一定の評価をいただいた。大きな自信になりました。
約半年間の再就職活動を経て、最終的に2社から内定を得ました。そのうちの神奈川県にある会社に入社しました。決め手は、上場企業であったこと。勤務地が山形に似て、自然豊かな環境であったこと。そして、特急で1時間で都心にアクセスできたことです。
2年半お世話になりましたが、ともても得がたい経験をすることが出来ました。経営状態が極めて悪化している状況での入社。給与・賞与ともに大幅にカットされ、退社までそれは解除されませんでした。ですが、企業の最悪の状態と再生の過程を体感し、直接的にではないにしろ、再生への活動に携わることが出来たこと。これは今後の自分の宝になると思います。
そのなかで感じるようになった違和感。現場からかけ離れたところで、机上の数値から資料を作ってゆく。これでいいのだろうか。開示規則にしたがって資料をまとめてゆくことが、果たして経営に生かされるのだろうか。現場主義を叩き込まれた自分にとって、現場から乖離した経理は、「自分が目指すべきものではない」と感じたのです。と同時に、「現場に根ざした経理、投資家といった会社の外へ向けて情報を発信する」のではなく、「経営に生かすべく会社の中へ情報を発信する経理に、再び、腰を据えて携わってゆきたい。」そう思い立ち、再び、転職のための情報を収集するようになりました。
そのさなか、東日本大震災がおこりました。
事務所でパソコンに向かっていたとき、これまでに感じたことの無い大きな揺れに恐怖を覚えました。かつて東京の親会社へ出向中に遭遇した中越地震を思い出しました。すぐに停電になり、避難指示がでました。全社員が非難した後、即退社を命じられました。会社から15分ほどの自分の部屋に帰ってすぐTVをつけました。幸い電気は通じていました。次々と映し出される、現実とは思えない光景。記憶にある、実際に何度も訪れたことのある風景が、消え去っている。いったい何が起きたのか。実家と連絡が取れたのは夜遅くのことでした。家族の無事を確認しほっとしました。ただ、家族の無事な姿を「この目で見るまでは」安心できない。私に出来ることは、TVに映し出される映像を携帯で撮影し、山形の家族にメールすることだけでした。停電のなか、情報を入手する手段を絶たれた家族の助けになればとの思いです。このときの思い。山形から離れ、家族のために何も出来なかった悔しさが、私に、山形へのUターンを決意させました。震災から1週間後、羽田から庄内空港へ、庄内空港から高速バスでなんとか山形へたどり着き、家族の無事な姿を目にしたときは、心から安心しました。
それから、年度末の本決算。1か月以上休みなしという、毎年恒例の激務を終え、ゴールデンウイークの代休を取得し山形へ帰省したとき、私はスーツと革靴を持参していました。履歴書に添付する顔写真を撮影するためです。6月初旬のその日。再就職時にお世話になった近所の写真館へ予約の電話をしたところ、臨時休業とのこと。仕方なく、明日の予約をとりました。時間は昼過ぎ。せっかくスーツを着ているのだからと、頭に浮かんだのが再就職の折お世話になれなかった、「キャリアクリエイト」さんでした。「直接、山形の求人動向を聞いてみよう。」だめでもともとです。「電話しよう!」そうしたら、何と「すぐに来れますか?」その足で事務所に伺いました。代表の原田様より簡単なカウンセリングを受けた後、紹介されたのが「B社」です。その日のうちに書類を揃え、原田様に送付。翌日には佐藤様と、より詳しい面談を行いました。「こんなキャリアを持った方を探してたんです!」そんなお言葉を頂いたときは正直驚きました。先方様より待ったなしの催促を受けられているさなかとのこと。「とにかくこの流れに乗ろう!」と思い、進めていただくことに。その後は、こわいくらいスムーズに進展し、翌週には面接受験の機会を頂きました。面接では、社長様はじめ、皆様と深く意見を交換することが出来ました。B社の進む道と自分が歩んできた道が重なり、一つに重なってゆく姿が見えました。「ここで働きたい。」そう思える環境に巡り合うことができたこと。しかも、生まれ育った山形の地で。うれしかったです。
その日の夕方、東京へとんぼ返りし、翌日の出社に備えていた深夜2時、祖母が亡くなったとの連絡が山形の家族からありました。これは果たして偶然なのか。いや偶然ではない。祖母は私が山形に戻り、家を支える決心をしたことに安心したのではないか。そう思わずにいられません。翌日山形へ戻り、人生で初めて、喪主を務めることになりました。ここで感じた、親戚の皆さん、山形の暖かさ。忘れかけていた大切なものを、祖母は最期に私に思い出させてくれたのかもしれません。
翌週、内々定の連絡を頂きました。そして、7月6日。私の34回目の誕生日。採用決定のご連絡を頂きました。
Uターンを決意し、行動に移してからちょうど1ヶ月。これほど早く、ベストな結果を得ることができるとは想像できませんでした。これまでの人生で感じたことのない「縁」を感じます。ですが、やはり、「キャリアクリエイト」さんと出会えたこと。原田様、佐藤様、黒川様。皆様と出会えたことが一番の「縁」だとおもうのです。
一人でも多くの方が、素晴らしい「縁」に巡り合い、自然豊かで心が温かい人々でいっぱいの山形へUターンされることを、心より祈っております。
皆さま、このたびは、本当に、有難うございました!
これからもよろしくお願いいたします!