▼「おくりびと」・インド旅行ーその2
写真は街で行き倒れた人に布をかけている様子を車中から撮影したもの
この色は女性亡骸
(文中の写真をクリックすると拡大できる。ピントがあってないが・・・)
ベナレスの街にはこのようにして亡くなった人の遺骸が転がっている
毎日10人くらい路上で亡くなってしむのだそうだ
ヒンズー教徒は家では死なない。できればベナレスで死んで焼いてもらって、その灰をガンジス河に撒いてもらうことを願っている
また人々が鮮やかな色をした物を担ぎ上げて口々に何かを唱えながら歩く姿にぶつかる
ガイドに「あれはなんですか」と問うと「亡くなった方の遺骸です」と言う答え
男と女で包む布の色を違えている
「何をみな口ぐちに唱えているのですか」とガイドに問いかける
「人間はみないつかは死ぬもんだ」という答え
この言葉は耳に残り、情景は目に焼きついた
ガンを宣告されたとき、再発の疑いを宣告されたとき、この言葉と情景を思い出した
そして思った。「人間はいつかは死ぬんだ」と
そう思うことによって気持ちを強く持てたような気がした
つい数十年前までは、家の中で近親者の死と言うものに向き合い、家族で死者を見送ったものである
子供もわからないままに親しい人の死に身近に接することによって命のはかなさ、死の厳かさというものに触れることができた
そこから命の尊さというものを学習できたのではないか
家の中で死者を見送るということがなくなった今、日本人の死生観というものもぼやけてきてしまった
今未曾有の経済危機に直面している
ここからの真の脱却をはかるためには経済的な快復だけを目指すのではなく日本人としての精神的なバックボーンを構築することの必要性が言われている
戦前から戦後にかけてまでは日本人には日本人として受け継がれてきた精神的な支えがあった
それを形作ってきた精神的なもとのとしては、仏教、儒教、武士道のようなものだろうか
場としては、家族、町内会、家族主義的会社などに象徴される連帯感、絆感ではなかったろうか
豊かさに比例したようにして孤独死が増えているという
「おくりびと」は納棺師の所作が美しいというだけでなく、連帯感の根源をなす「死生観」というものを我々に問いかけてきているように思う
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2009.02.26:choro
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