▼「楽しみは」 − 3
○ 橘曙覧、57年の生涯とは
1812年(文化9年)5月、現在の福井県に生まれた。彼が生きた57年間とは、そのまま激動の幕末期と重なる
21歳で結婚し3人の女の子に恵まれたがすべて亡くしてしまった
結婚して稼業を継いだが商売はうまくいかず、28歳の曙覧は稼業から身をひいて家業と全財産を義母弟にゆずり、自分は隠棲することにした
定職を持たない彼に収入はなく、生活は困窮をきわめた
○ 松平春獄の誘いを断わった
福井藩主松平春獄は曙覧の庵に使者を送り、仕官するように求めた。登城して古典の講義をさせようとしたのであるが曙覧は春獄の依頼を断った
57歳で病死した彼は現在、福井市の郊外にある“花しょうぶの寺”として名高い大安禅寺に眠っている
○忘れられていた歌人はなぜ復活したのだろう・・・・?
△橘曙覧を認め直した最初の人は正岡子規だった
曙覧は、「曙覧の歌」と題する文章のなかで「源実朝以後、ただ1人の歌人である。曙覧を賞賛するのに千万言をつやしても誉めすぎることは無いであろう、・・・」と激賞、絶賛している
△その後に橘曙覧を世に出さしめたのがアメリカのクリントン大統領なのである
1994(平成6年)訪米された天皇皇后両陛下の歓迎式典が開かれた際、クリントン大統領は歓迎スピーチの最後を「独楽吟」の中の1首を引用することによって締めくくった
それは下記の通り
『歌人橘 曙覧が残した優雅な言葉に耳を傾けたいと思います
「たのしみは 朝おきいでて、 きのうまで 無かりし花の 咲ける見る時」
この歌は百年以上も前に詠まれたものでありますが、その伝える心は時代を超えたものであります
1日1日新たな日とともに確実に新しい花が咲き、ものごとが進歩し、日米両国民の間の友好を育むのです
天皇皇后両陛下、われわれ両国の共通の理想に対する決意は揺るぎないものです。力をあわせて努力していく決心は強固であります
両陛下を心から歓迎も申し上げます
アメリカ合衆国にお迎えできて誠に光栄です。ありがとうございました』と歓迎のスピーチをした
このスピーチで橘曙覧は一躍世に知られるようになったのである
ちなみにこの歌の新井 満氏の自由訳(現代語訳)
「朝起きて庭に出てみると、おや?昨日まで咲いていなかった朝顔が大きく見事に咲いているではないか。ああ、こんな時なのだよ。なんともいえずうれしく幸せな気分になるのは・・・」
○私が気になった歌
「たのしみは 妻(めこ)むつまじく うちつどひ 頭(かしら)ならべて 物をくふ時」
「たのしみは まれに魚煮て 児等皆が うましうましと いひて食ふ時」
「たのしみは 3人の児ども すくすくと 大きくなれる 姿みる時」
私は3人の子供に恵まれたが、子育ては女房にまかせきりであった
心貧しき父親であった
● 戦後の貧しい時、人々は幸せだったのでは?
生涯経済プランの作成セミナーの講師として話すときに、不安を払拭し希望を持って突き進んでもらうため「ボロは着てても心は錦」「貧しいけれど楽しい我が家」などと昔懐かしい言葉を語ってみる
戦後の貧しさを少しでも知っている人たちは、かすかではあるがうなずいてくれる
貧しいなかにも家族の温もりや周りの人たちの温かさがあったことなどを思い出し、その中に感じた幸せ感を思い浮かべているのだろうか
小沢昭一氏がいう「貧民主義」ではないが、極論すれば「貧しさのなかにこそ幸せがある」ともいえる
もちろん戦後の貧しさの裏にはこれから良くなるという希望のようなものもあったが・・・
● 「生きているだけで幸せである」と言う意識に向かって
がんになってみて命には限りがあるということをふと思えるようになった
「生きているだけで幸せ」と思えるような境地に到達してみたいと思うこともある
余計なものは捨てて、身軽になって自分の内なる声に耳傾けて生きていかないと・・・
新井さんが選んだこの歌
「 たのしみは 庭にうえたる 春秋の 花のさかりに あへる時時 」
新井さんの自由訳は前に紹介したが、 私の自由訳を作っていきたい
毎日の私の自由訳の出来上がりが「生きているだけで幸せ」の幸せ感に結びついていくはず
年とともに硬くなりつつある感性に磨きをかけ、五感を働かせて毎日の生活のなかに自分なりの幸せ感を見つけていきたいものである
2009.05.22:choro
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