▼山形の戦国武将最上義光
こんにちは。
昨日は山形城についてお話しましたので、今日は山形の戦国武将「最上義光もがみよしあき」についてです。
最上家11代当主。一族、周辺の豪族などとの対立を乗り越え、豊臣政権時代を経て、関ヶ原の戦いでは、徳川方に味方し(徳川家康には相当の信頼を寄せていたようです)、戦国最強軍団の一つ上杉家の軍勢を長谷堂合戦にて引きとめた戦功により、戦後57万石の大大名に成長しました。※長谷堂合戦についてはまた後日詳しく触れます。
ここまではよかったのですが、家督を嫡男義康に継がせればよかったのでしょうが、家康に預けてあった二男家親に継がせたこともあり、家臣がまとまらず義光の死後は二代で改易されてしまいます。
しかし、義光が山形の基礎を築いたことは間違いないでしょう。山形城の拡張、城下町の整備、寺社の保護、新田開発など、功績ははかりきれません。
この人については賛否両論、今までのドラマでも悪役のイメージが非常に強く、伊達家、上杉家といった大名家の引き立て役になっているような感じでした。やれ謀略家、残酷、冷酷などなど。しかし戦国時代は親子兄弟が対立、手にかけたことも珍しくなかったようです。また謀略についても、戦闘を極力避け、自他ともに損害を少なくし、相手を屈服させる戦法でもあったわけですね。その点、義光は、降伏した相手にも寛大に対応したといわれ、家臣に取り立てた武将もいます。また領内では一揆はほとんど起こらなかったくらい領民にも配慮していたようです。
義光については今後、ますます検証を進め、正当な評価をしていただきたいものです。
→画像[大 中 小]
2010.07.06:yusuke1970
→トップへ
(C)山形E旅
powered by samidare
system by community media (Free CMS)