あやめ公園の成り立ち 2:ながいファン倶楽部ライブラリー
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長井のあやめ公園は明治43年の創始。あやめまつりが始まり、園内の花菖蒲も中咲きの品種も咲き始めた。引き続き、あやめ公園の成り立ちをたどってみよう。
徐々に公園を拡大していった大正7年7月、園内にボンボリを点灯させた。数は数十灯だった。今にしてみればそう多くはないが、当時としては画期的であった。これは、長井町に電気部があり、電気事業がうまくいっていたし電力の供給も容易であったためだ。電気事業は、大正3年に、長井駅開業と同時に導入した事業。外部から電気を買い入れ、配電していたのだ。以来、夜のあやめ公園として好評だったため、逐次ボンボリを増やしていった。これを機に、料理屋や市外の飲食店も進出し始めた。大正8年には公園に吉野桜が植えられ、公園の発展も日増しに活発化していった。
ボンボリとイルミネーション 大正7年以降 夜景が新たな風景を生み出した
長井線が荒砥まで開通 こんな風景があった
大正12年には長井線が長井・荒砥間が開通、つまり赤湯から荒砥まで全線開通した。その前の大正11年、隣接する果樹園を戻して公園を拡大。そして昼のあやめと夜の夜景が県下に宣伝されるようになった。大正13年には公園を拡大して工事費200円で水泳場をつくる。
徐々に多くの店小屋がかかる。昭和初年ころに公園にかかった掛小屋はサーカス、オートバイの絶壁乗り、学者犬、犬猿の曲芸、生きた蛇をくう美少女、一寸法師、地獄極楽、移動小動物園、化物屋敷などなど。まがまがしいものまで見世物がならび、市内はもとより近隣からも訪れるようになり、ますます賑わいをみせるようになった。
大正期のあやめ公園