あやめ公園の成り立ち 3:ながいファン倶楽部ライブラリー

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あやめ公園の成り立ち 3


あやめ公園は、昭和に入ってから飛躍的に観光客が多くなっていく。それは・・・・。その歴史をたどってみよう。

 

あやめ公園の拡大に合わせ、昭和5年、山形新聞社主催「山形県一 十秀決選リレー投票」があり、果敢に長井町が挑んだ。それは、県内の観光地の県一を決めるもの。町あげての活動によって、見事「山形県一名所」となった。その記念碑は現在公園の中央部にあるが、このことが契機となって、多くのお客さんであふれることになる。また、中央にある噴水は、県一になった記念に整備されたもの。国鉄側も大々的に宣伝に乗り出す。その1枚が、今回観光協会で復元したあやめのポスターだ。長井駅に臨時列車が到着すると当時の佐藤鶴吉町長は、羽織袴で出迎え、歓迎の花火を打ち上げたという。掛け小屋も増え、最盛期には45もの見世物がかかった。

しかし、受け入れが不十分で、見世物と茶店はあるが本格的な会館はなかった。昭和8年高台南に、民間の北斗会が「あやめ会館」を建設。合わせて、高台西にはグリーン支店が出来、にぎわった。飛躍的な時期でもある。

 

現在のあやめ公園北口付近からの撮影 右中ほどに名所県一碑が写る

 

名所県一を記念して整備された中央噴水 中央に記念碑 

 

大正8年に建設されたあやめ会館 名称は公募で決まった

 

あやめ会館の北面

 

 

あやめ会館一階の平面図

 

 

グリーン支店 高台西にあった

 

 

山形運輸事務所で制作したポスター

 

 


2015.06.18:Copyright (C) 読みもの長井物語
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