あやめ公園の成り立ち 4:ながいファン倶楽部ライブラリー
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あやめ公園の成り立ち 4
2015.06.22:Copyright (C) 読みもの長井物語
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昭和5年に山形県一名所に「あやめ公園」が選出され、以来飛躍的に来園者が多くなっていった・・・・。その歴史をたどってみよう
昭和10年に整備 上部に「山形縣長井のあやめ 大瀑布」とある
昭和10年の長井駅前に設置された歓迎ゲート
勢いのついた長井町は、公園内に築山と滝を造成する。それが昭和10年だが、現あやめ会館の東側にあるのがそれだ。同年には、地元の歌を発表する。「恋のぼんぼり」と「あやめ踊り」だが、つつじ公園にあった演芸館で「東海林太郎アトラクション」興行も行う。東海林太郎は、当時抜群の人気を誇っていた歌手だ。昭和12年、「あやめ公園開園記念碑」が建立される。昭和10年に建立すべく活動し昭和12年7月11日、長井川柳社主催「あやめ川柳大会」で除幕式が執り行われた。この記念碑には、当時全国に名を知られた大家の句が句が刻まれている。井上剣花坊「人去りて地に紫の詩が残る」。近藤飴ン坊「魂はゆかりの色もよみかへり」。大谷五花村「名園の花を生かして絵雪洞。それぞれ揮毫がそのまま刻まれている。昭和13年、整備費用200円をかけて水泳場をつくる。しかし、第二次世界大戦に入り、昭和17年には園内を町民に貸し付け芋畑となってしまう。昭和18年、料理屋や貸座敷の転業廃業が相次ぎ、あやめ会館の建物も売却された。
長井駅前菊水館前の「東海林太郎アトラクション」宣伝風景
昭和12年あやめ公園開園記念碑の除幕式 右から3番目に大谷五花村
そして終戦、あやめ公園の復活に町民が燃える。芋畑となった公園を蘇らせようと、長井町内、近隣に協力を呼びかけ花菖蒲を寄付してもらった。明治神宮の花菖蒲も譲り受けた。昭和23年、多くの人々の努力と熱意で復活したあやめ公園、華々しく「復興祭」を行った。それを記念して、現公園北駐車場の野川堤防に桜を植えた。いま、見事な花を咲かせている。昭和27年、あやめ育成家が集まる「あやめ鉢作り愛好会」が結成されるが、この団体がその後のあやめ園の歴史を変えることになるのだ。あやめ公園の宣伝では、昭和28年に初めて県外にキャラバンを実施。宣伝カーに踊り子の乗せ、福島・仙台・郡山におもむき、長井踊りで宣伝する。昭和29年、11年ぶりにあやめ会館を行政で建設。同年、一町五カ村が合併し長井市が誕生した。
昭和23年開催 あやめ復興祭 三清楼前の看板 現きらやか銀行付近
あやめ公園復興を記念して植樹された 昭和23年
行政で建設したあやめ会館 初代のあやめ会館より小さい
あやめ会館広間 いろんな見世物が催されたのだろう