▼あやめ公園の成り立ち 7 最終

昭和37年、あやめ公園の名前は変わらないが、大きく変貌した公園。希少な「長井古種」の発見は、古種保存園として全国の花菖蒲愛好家から注目を集めた。昭和38年には長井踊りのきっかけともなった、三橋美智也の「長井盆唄」も発表される。以降、公園も形が変わっていった。

 

現在のあやめ公園

 

公園は、昭和40年3月26日に都市公園になる。昭和41年、あやめ公園高台を整地し公衆トイレも整備した。昭和48年、これまで無料であった入園が有料となった年だ。市民は入園料を免除し、市外の観光客からいただく方法をとった。受け入れ施設として新しく「あやめ会館」を建設する。あやめ会館は最初は昭和8年、民間で整備、次に長井町で築山西に整備されている。3代目の会館は当時は団体客を重視した構成であったが、42年たった今建て替えを迫られている。翌昭和49年には無料休憩所、トイレを整備、高台にも昭和54年に無料休憩所を整備するなど次々と改修していった。昭和50年には乗務員休憩所、中央口の入園料徴収所を整備。昭和55年には、あやめ公園開園70周年にあたり築山の北にモニュメントを建てる。作家は長沼孝三氏。昭和61年、物産館を整備、平成4年には公園の約半分を改修する大事業が進められ、現在の公園とほぼ同じ状態となった。平成12年、昭和12年に建立された「あやめ公園開園記念碑」が園内中央部に移転、「山形県一名所」記念碑と共に並んで佇んでいる。

昭和55年に建立されたモニュメント 右にモニュメント、中央に長沼孝三氏

 

観光事業についても大きく変化していった。昭和51年、ミスあやめコンテストの第1回が開催された。昭和58年、独立国ブームを受けて「あやめおとぎの国」のイベントが繰り広げられ、多くの観光客と市民でにぎわった。

 

ミスあやめコンテスト 第1回は地元長井からの参加はいなかった

昭和61年、第11回で幕を閉じた

 

昭和58年の事業、あやめおとぎの国で使用された紙幣 500フローラ  


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2015.07.01:n-old

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