「記憶」の再生…戦後80年の「8・15」に想うこと〜歴史の“無化”に抗(あらが)いながら!!??:はなめいと|岩手県花巻市のコミュニティ

はなめいと|岩手県花巻市のコミュニティ
「記憶」の再生…戦後80年の「8・15」に想うこと〜歴史の“無化”に抗(あらが)いながら!!??


 

 戦後80年―。先の大戦の戦争“遺児”もすでに85歳の老境を迎えた。戦争の真っ只中に「生」を受けたはずの当人の記憶の中から、その“戦争”が日々薄れていく。敗戦の日の8月15日、何か急かされるような気持で、私は地元の博物館へと急いだ。そこではテーマ展「戦争と花巻」(7月5日〜8月24日)が開かれていた。めっきり弱った足腰の動きを気遣って、受付の館員が使い勝手のいい車いすを用意してくれた。たっぷり、2時間。えぐられたような穴が開いた黒い塊(かたま)りが目に飛び込んできた。

 

 「九九式双発軽爆撃機(胴体部分)」と書かれた説明版にはこう書かれていた。「後藤野飛行場から出撃した渡邉秀男少尉(享年22歳)が搭乗し、福島県原町(現南相馬市)に墜落した特攻機の一部です」―。後藤野飛行場(現北上市和賀町後藤)は昭和13(1938)年に建設され、「最北の特攻出撃基地」と呼ばれた。敗戦末期には陸軍特別攻撃隊の隊員8人が配属され、そのひとりが静岡県出身の渡邉少尉だった。釜石市が2度目の艦砲射撃に見舞われた8月9日、3機に出撃命令が下され、渡邉機は太平洋上の連合艦隊への突撃を試みたが、何らかのトラブルが発生。原町郊外の山林に墜落したとみられている。

 

 「兵隊さんの魂が入っているから…」―。80年ぶりに“ふるさと”岩手に戻ってくるきっかけは墜落現場に住む地元民たちのこんな思いがあったからである。まもなく「軍神」となるはずの若き特攻隊員たちには出撃前、ひと時の「家庭のあたたかさ」を味わってもらうため、民家への寄宿が提供された。渡邉少尉はいまも続く当市の味噌・醤油製造の老舗「箱崎醤油店」に約2週間ほど身を寄せた。死出の旅立ちを前にそこでは一体、どんな会話が交わされたのであろうか。

 

 渡邉少尉の短い一生を追想しているうちにふと、心づいた。「そういえば、14年前に福島原発事故が起きたのは少尉が非業の死を遂げた現場からわずか20キロほどしか離れていなかった」―。この不思議な偶然に頭を混乱させながら、私はこの日のために携えてきた一冊の本のページを繰(く)った。

 

 『80年越しの帰還兵―沖縄・遺骨収集の現場から』(新潮社刊)―。ともに大手新聞社出身のフリージャーナリスト、浜田哲二・律子夫妻の2冊目の“記憶”の配達日記である。前著『ずっと、ずっと帰りを待っていました―「沖縄戦」指揮官と遺族の往復書簡』(同社刊)については、2024年4月4日付の当ブログで紹介した。失速し、ぐるぐると宙を旋回する渡邉機の機影が、続編とも言える本書と二重写しになった。「佐岩さん、あなたは誰ですか」という一節が目に止まった。

 

 20年以上、沖縄で戦没者の遺骨収集や遺留品の返還運動を続けてきた浜田夫妻は3年前の初冬、糸満市の現場で「佐岩」と彫られたハンコを見つけた。「珍しい名前だから、すぐ遺家族に返せる」と思った。しかし、当ては完全に外れた。「平和の礎(いしじ)」がある平和祈念公園のデータベースにも「佐岩性」は記録されていなかった。自分たちで収集した部隊資料の中に「佐藤岩雄」という名前があった。北海道の出身で、大隊の第三中隊に所属していることが分かった。「名字と姓を一文字ずつ組み合させたとしたら…」

 

 印章学の研究者、ハンコ屋の業界団体である全日本印章業協会…。「佐藤岩雄さんが、“佐岩”というハンコを持っていた可能性は十分あります」―。協会の福島恵一会長はこう話し、続けた。「姓と名の一文字を取ったハンコでも印鑑登録は認められています」。はやる気持ちを押さえながら、夫妻が北海道に向かったのはその年の6月。地元警察や町役場、印章業協会から紹介された地元のハンコ屋さん、果ては映画「ゴールデンカムイ」で有名になった旧陸軍第7師団の「北鎮記念館」、北海道護国神社…。記者時代に鍛えた“地取り”調査(聞き込み)が役に立った。こんな記述に涙がボロボロとこぼれ落ちた。

 

 「家族をとても大切にする伯父だった思います。遺骨や遺品が何も返らないのがよほどつらかったのでしょう。父親は旅行に行く知人に頼んで手に入れた沖縄の土を墓に納めたと聞きました。岩雄が持っていたハンコだと思います。こんな小さなものでも伯父の証。いただけますか。仏壇に供えて供養したい」―。競走馬の産地として知られる新ひだか町(旧静内町)に住む、岩雄さんの弟・武さんの長男である秀人さん(64)は慈(いつく)しむようにハンコをなでながら、こう語ったという。

 

 「昭和20年12月16日、栄養失調症により、ソ連ウスリ−州ウオロシロフ地区リポ−ウツイ収容所で戦病死」―。黄色に変色したその紙片(戦死公報)にはこう書かれている。渡邉少尉の数奇な運命、そして戦火に散った「記憶」の配達に奮闘する浜田夫妻の姿を思い浮かべながら、私は無意識のうちに父親の記憶をさかのぼっている自分に気がついた。敗色が濃厚になった昭和19年夏、旧満州(中国東北部)へ。約1年後の敗戦でソ連軍の捕虜となり、シベリアの収容所に抑留された。享年37歳だった。

 

 「捕虜たちの仕事はほとんどが石炭堀りだった。みんなガリガリにやせこけてね。タバコを差し入れしたこともあった。多くの人が死んだらしいけれど、みんなそのまま土に埋められたと聞いている。日本語の唄がいつも聞こえてきた」―。今から35年近くも前、私は父親の面影を求めて、元収容所跡を訪ねた。目指した場所は「ソ満」国境のウスリ−河のほとりにあった。荒涼とした草原が捕虜たちの“墓所”だった。シベリア抑留者は総数で約64万人といわれ、うち約6万人が死亡している。村人たちは当時の記憶を昨日のことのように記憶していた。私は道端に転がっていた石炭のかけらと異国の土くれを持ち帰り、いまは亡き父母が眠る墓にそっと、納めた。

 

 「記憶の再生」という言葉がふと、口元に浮かんだ。戦後80年の節目の2025年―。歴史の記憶を修正したり、捏造(ねつぞう)したりする“狂気”が日本列島をおおいつつある。「息が詰まりそうな日常から少しでも逃れたい」―。そんな思いにかられた私は父親の唯一の“形見”である2冊のノートを仏壇から取り出した。父親が通っていた慶應義塾大学理財科(当時=現経済学部)の講義記録である。万年筆でびっしり書かれた字面から、几帳面だったその性格がしのばれるが、私自身に生前の記憶はない。

 

 「哲学」ノートの一節にこんな文章が載っている。「霊魂ノ救済ハ矢張リ、一ツノ情熱ヲ感ズル所ニアルガ、而シソコデハ霊魂ノ本質ガ凡ユル感覚的ナ障害カラ超越シテ居る場合デアル」―。「霊魂の救済」という言葉が胸に突き刺さった。そして、思った。「こんな“哲学っ気”が今の私と似ていると言われれば、似ているのかもしれないな」と…

 

 朝鮮半島出身者、台湾出身者、さらにアイヌ民族や連合国軍捕虜…。浜田夫妻は「そこに眠るのは『日本人』だけではない」と題した最終章をこう結んでいる。「戦争が生む悲劇と薄れゆく記憶に立ち向かうべく、沖縄で戦没者に向き合うアイヌにルーツを持つ若者と、遺骨収集を続けてくれている若き記者。あの戦争から80年、日本の未来も捨てたものではない」―。私にとっての80年目の「8・15」はこんな風にして、過ぎていった。そうとは気づかずに「記憶の再生」を試みていたのかもしれない。(コメント欄に関連写真を2枚掲載)

 

 

 

 

 

(写真は渡邉少尉が搭乗していた特攻機の胴体部分=花巻市高木の花巻市博物館で)

 

 

 

≪追記≫〜アイヌ戦没者の消息を求めて!!??

 

 当ブログをアップした直後の18日午前11時すぎ、文中に紹介した浜田哲二さんからさっそく、返信があった。こう書かれていた。そのナミダが一体、何だったのか。読みながら、ふたたび「滂沱(ぼうだ)の涙」が流れ落ちた。

 

 「現在、北海道に来ています。アイヌ民族の戦没者を追いかけているのです。これが簡単ではありません。〈道東の〉白老に一軒家を借りて、コタン(集落)を回る日々。差別され続けた方々の苦難は、並大抵なものではないことを改めて知らされました」ー。浜田夫妻の『80年越しの帰還兵』によれば、沖縄戦で犠牲になったアイヌ出身の“日本兵”は43人に上っている(北海道アイヌ協会調べ)


 

 

 

 

 

 

 

 

★オンライン署名のお願い★

 

 

 「宮沢賢治の里にふさわしい新花巻図書館を次世代に」―。「病院跡地」への立地を求める市民運動グループは七夕の7月7日から、全世界に向けたオンライン署名をスタートさせた。イーハトーブ図書館をつくる会の瀧成子代表は「私たちは諦めない。孫やひ孫の代まで誇れる図書館を実現したい。駅前の狭いスペースに図書館を押し込んではならない。賢治の銀河宇宙の果てまで夢を広げたい」とこう呼びかけている。

 

 「わたくしといふ現象は/仮定された有機交流電燈の/ひとつの青い照明です/(あらゆる透明な幽霊の複合体)」(『春と修羅』序)―。賢治はこんな謎めいた言葉を残しています。生きとし生ける者の平等の危機や足元に忍び寄る地球温暖化、少子高齢化など地球全体の困難に立ち向かうためのヒントがこの言葉には秘められていると思います。賢治はこんなメッセージも伝え残しています。「正しく強く生きるとは銀河系を自らの中に意識してこれに応じて行くことである。われらは世界のまことの幸福を索(たず)ねよう、求道すでに道である」(『農民芸術概論綱要』)ー。考え続け、問い続けることの大切さを訴えた言葉です。

 

 私たちはそんな賢治を“実験”したいと考えています。みなさん、振って署名にご協力ください。海外に住む賢治ファンの方々への拡散もどうぞ、よろしくお願い申し上げます。

 

 

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●新花巻図書館についての詳しい経過や情報は下記へ

・署名実行委員会ホームページ「学びの杜」 https://www4.hp-ez.com/hp/ma7biba

 

・ヒカリノミチ通信(増子義久)  https://samidare.jp/masuko/

 

・おいものブログ〜カテゴリー「夢の新花巻図書館を目指して」   https://oimonosenaka.seesaa.net/ 

 

 

 


 

 

 

 

 

 

 

 


2025.08.15:Copyright (C) ヒカリノミチ通信|増子義久
”記憶”の配達員

浜田夫妻のこの2冊は戦後80年の必読書である。歴史(記憶)の「無化」を企てる風潮が頭をもたげている中、浜田夫妻は世代を継いだ「記憶の再生」の大切さを繰り返し、訴える。その原点は「人間とは何か」というあくなき問いかけのように思える。

2025.08.15 [修正 | 削除]
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2025.08.15 [修正 | 削除]
「記憶」の再生ということ

戦争”遺児”もすでに85歳の老境へ。22歳の若さで戦火に散った渡邉少尉の生涯と80年前の記憶を背負い、それを遺家族の元に届け続ける浜田夫妻…。老残の私ももうすこし、その後を追いかけようと思う。写真は父親の戦死公報と大学時代の講義ノート

2025.08.15 [修正 | 削除]
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