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「喪失」という物語
2018.09.04:Copyright (C) ヒカリノミチ通信|増子義久
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「大いなる喪失は自死を招き寄せるということなのだろうか」―。妻を失って、最初に手にした本がその死(7月29日)の直前に刊行された『原民喜―死と愛と孤独の肖像』(梯久美子著)だった。月並みな表現だが、ぽっかりと穴の開いたような喪失感がこの本を手に取らせたような気がする。広島で被爆した体験を詩や小説などに表現した原(1905年―1951年3月13日)は原爆の前年に精神的な支柱だった妻を病気で失い、疎開先で自ら被爆した6年後、東京都内で鉄道自殺した。46歳の若さだった。代表作『夏の花』(晶文社版)の中に原爆の惨状を描いたこんな一節がある。
「河岸に懸つてゐる梯子に手をかけながら、その儘硬直してゐる三つの死骸があつた。バスを待つ行列の死骸は立つたまま、前の人の肩に爪を立てて死んでゐた」―。原は同書の少し前でそんな光景を「どうも、超現実派の画の世界ではないかと思へるのである」と書き、あえて片仮名書きで「スベテアツタコトカ/アリエタコトナノカ/パツト剥ギトツテシマツタ/アトノセカイ」と続けている。東日本大震災で母親と妻、そして愛娘を失った知り合いの被災者が津波に襲われたがれきの荒野を被爆地と重ねて語ったことがある。身近な肉親の喪失と膨大な死者の群れ…。「そのことについて、自分の中でどう折り合いをつけたらいいものなのか」と―。
『夏の花』は亡き妻の墓参の場面から始まる。著者の梯さんは原の気持ちを次のような文章からすくい取っている。「さうだ、僕はあの無数の死を目撃しながら、絶えず心に叫びつづけてゐたのだ。これらは『死』ではない、このやうな慌ただしい無造作な死が『死』と云へるだろうか、と。それに較べれば、お前の死はもつと重々しく、一つの纏(まと)まりのある世界として、とにかく、静かな屋根の下でゆつくり営まれたのだ」(『夢と人生』)―。この文章を紹介しながら、梯さんは「妻を看取ったその目で見たからこそ、広島の死者の無残さは原を打ちのめしたのである」と書いている。
前述の被災者の肉親は7年たったいまも行方不明のままである。この人にとっては「慌ただしい無造作な死」さえまだ、訪れてはいない。「奥さんを大事にしてね」と逆に病弱な私の妻をいつも気遣ってくれた。その妻が旅立ったいまこそ、私は原民喜のように「無造作な死」の陰に隠された本当の「死」の意味をもう一度、確かめる旅に赴かなくてはならないのかもしれない。
原は『鎮魂歌』(1949年8月)に中に絶叫するように書き付けている。「自分のために生きるな、死んだ人たちの嘆きのためにだけに生きよ。僕を生かしておいてくれるのはお前たちの嘆きだ。僕を歩かせてゆくのも死んだ人たちの嘆きだ。お前たちは星だった。お前たちは花だった。久しい久しい昔から僕が知つているものだった」―。原が自死するのはこのわずか1年半後のことである。葬儀委員長の思想家、埴谷雄高(はにやゆたか=故人)は「あなたは死によって生きていた作家でした」と弔辞を述べたという。
「喪失」とはもうひとつの「生」を生き直すための里程標(りていひょう)なのだろうか―。
(写真は生前の原民喜=インターネット上に公開の写真から)