”平和”五輪の閉幕と「星めぐりの歌」…イ−ハト−ブは一体、どこへ!?:はなめいと|岩手県花巻市のコミュニティ
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”平和”五輪の閉幕と「星めぐりの歌」…イ−ハト−ブは一体、どこへ!?
2021.08.09:Copyright (C) ヒカリノミチ通信|増子義久
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「不吉な予感が的中した」―。東京五輪の閉会式のクライマックスシ−ンに女優の大竹しのぶさんが登場。郷土の詩人で童話作家の宮沢賢治が作詞作曲した「星めぐりの歌」を少年少女たちと一緒に歌う場面を見ながら、何かざわッとしたものを感じた。「あかいめだまのさそり/ひろげた鷲(わし)のつばさ」…。「次世代への継承と平和への祈り」を込めたという意図が今回の祝祭のフィナ−レに果たして、ふさわしいものだったのか。毎日、“時報”代わりにこの歌を聞かされている花巻市民のひとりとして、「時代」に利用されてきた賢治の危うさを嗅ぎ取ったからである。
私はコロナ禍の中で強行された今回の“五輪狂騒曲”について、前回の当ブログで「戦争は平和である」というオ−ウェル流の逆説(二重語法)を援用しながら、その全体主義化の危険性を指摘したつもりである。実は足元でもその兆候を感じていた。地元出身の五輪選手がまるで先の大戦で出征兵士が戦場に送り出されるような時代がかった光景にまず、胸騒ぎを覚えた。やがて、その選手を激励する懸垂幕が市庁舎に吊るされ、そして競技終了後に「応援ありがとうございました」と市のHP上に掲載されるに至って、私は「待てよ。これって例の大政翼賛会の現代版ではないのか」と背中に戦慄が走るのを感じた。
賢治の詩「雨ニモマケズ…」はその作品の中でも一番、人口に膾炙(かいしゃ)した詩編である。しかし、この詩が昭和17年、戦争遂行のために組織された「大政翼賛会」の編集になる『詩歌翼賛』の中に収録され、当時の農村労働力の収奪に利用されたという事実はあまり知られていない。また、戦後の学制改革に伴い、中学用の国語の教科書に採用する際には「1日ニ玄米四合ト、味噌ト少シノ、野菜ヲタベ」という部分が「玄米三合」に書き換えられた。戦後の食糧難の中で「耐乏生活」を強いるためのスロ−ガンとして、喧伝されたのだったが、広島原爆の悲惨を描いた井伏鱒二の代表作『黒い雨』(最近の「黒い雨」裁判で勝訴)にこんなくだりがある。「1日に四合というのを、三合と書きかえるのは、曲学阿世の徒のすることです」
没後88年―。まさか亡霊のような形でおのれがよみがえったことに賢治自身が面食らっているのではないか。ただ、「時代」に利用されやすいということは同時にその作品自体が持ち合わせる弱さでもある。星座を指さしながら、可憐な歌声を披露する少年少女たちの姿を見ながら、私は賢治の有名な警句―「世界がぜんたい幸福にならないうちは個人の幸福はあり得ない」(『農民芸術概論綱要序論』を思い出していた。銀河宇宙という広大無辺の世界こそが賢治作品が躍動する舞台にふさわしい。と同時に、この言葉は一歩間違えば「個」を「全体」へと誘導しかねない“諸刃の剣”でもある。私が敬愛する地元の詩人に「この広さなら」と題する詩がある。
世界がひとつになるにつれて
ひとりで決めることは
隣の人を殺すことになり
みんなで決めることは
ひとりひとりを殺すことになり
それだから
愛に満ちた世界を求めることは
愚かなことになってしまったのだ
……
一滴の滴にも宇宙(コスモス)がある
抱え込める世界はせいぜい
雑木林や沼のちっぽけな広さなのだ
この広さなら隅々まで見渡して
ひとりも殺さずに決めることができる
閉会式を横目でチラチラ眺めながら、私は「生と死」ということを考え続けた。そして、思った。「この祝祭はコロナ禍をおおい隠すために仕組まれた、“五輪ファシズム”ではなかったのか」―と。賢治はわが郷土を「イ−ハト−ブ」と名づけ、代表作『注文の多い料理店』(広告チラシ)にこう書いた。「イ−ハトヴとは一つの地名である。強て、その地点を求むるならば、大小クラウスたちの耕していた、野原や、少女アリスが辿った鏡の国と同じ世界の中、テパ−ンタール砂漠の遥かな北東、イヴン王国の遠い東と考えられる。実にこれは、著者の心象中に、この様な状景をもって実在したドリ−ムランドとしての日本岩手県である」―
「賢治を利用するのはもう、やめにしてほしい」と遅ればせながらの賢治ファンである私は心からそう願わずにはいられない。37歳での夭逝(ようせい)はやはり、早すぎはしなかったか。約100年前、全世界を恐怖のどん底に陥れたスペイン風邪…実は賢治の妹トシもこの感染症に罹患したと言われる。遠く時を隔ててもなお、”時代”に翻弄(ほんろう)される賢治が銀河の彼方で目を白黒させている姿が目に浮かんでくる。何とも皮肉なことにいま、この「夢の国」に君臨するのは「Mr.PO」(パワハラ&ワンマン)とも称される”独裁者”である。「イーハトーブ」がファシスト国家に取って代わられると考えるのは果たして、悲観主義者の杞憂(きゆう)にすぎないのだろうか。
(写真は聖火が消されるクライマックスに登場した「星めぐりの歌」=8月8日夜、オリンピックの閉会式が行われた国立競技場で=インタ−ネット上に公開された写真から)
《追記》〜「だまされる側」の責任
前回の当ブログで映画監督、伊丹万作の「戦争責任者の問題」を引用したが、その前段に「だまされる側」の責任に言及した部分がある。今回の“五輪狂騒曲”における「戦争から平和」へのベクトルと余りにも似通っているので、その部分を以下に転載する。
「さて、多くの人が、今度の戦争でだまされていたという。みながみな口を揃えてだまされていたという。私の知っている範囲ではおれがだましたのだといった人間はまだ一人もいない。ここらあたりから、もうぼつぼつわからなくなってくる。多くの人はだましたものとだまされたものとの区別は、はっきりしていると思っているようであるが、それが実は錯覚らしいのである。たとえば、民間のものは軍や官にだまされたと思っているが、軍や官の中へはいればみな上のほうをさして、上からだまされたというだろう。上のほうへ行けば、さらにもっと上のほうからだまされたというにきまっている。すると、最後にはたった一人か二人の人間が残る勘定になるが、いくら何でも、わずか一人や二人の智慧で一億の人間がだませるわけのものではない」
「すなわち、だましていた人間の数は、一般に考えられているよりもはるかに多かったにちがいないのである。しかもそれは、『だまし』の専門家と『だまされ』の専門家とに劃然と分れていたわけではなく、いま、一人の人間がだれかにだまされると、次の瞬間には、もうその男が別のだれかをつかまえてだますというようなことを際限なくくりかえしていたので、つまり日本人全体が夢中になって互にだましたりだまされたりしていたのだろうと思う」