「ずっと、ずっと帰りを待っていました」…「記憶」の“郵便配達”:はなめいと|岩手県花巻市のコミュニティ
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「ずっと、ずっと帰りを待っていました」…「記憶」の“郵便配達”
2024.04.04:Copyright (C) ヒカリノミチ通信|増子義久
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『ずっと、ずっと帰りを待っていました』(新潮社)―。朝日新聞「読書欄」(3月16日付)に掲載された書評のタイトルに目を奪われた。副題に「『沖縄戦』指揮官と遺族の往復書簡」とあった。「浜田哲二・浜田律子」…著者名にまた、びっくりした。「あの、浜ちゃんではないか」。さっそく、本を取り寄せた。朝日新聞のカメラマンだった「浜ちゃん」は2010年に社を早期退職し、元読売新聞記者の妻律子さんとともに20年以上、沖縄で戦没者の遺骨収集と遺留品や遺族への手紙の返還運動をしていることを初めて知った。本書はその集大成とも言える感動の物語だった。
太平洋戦争末期の激戦地・沖縄で、陸軍第24師団歩兵第32連隊を率いたのは大隊長の伊東孝一(2020年2月没、享年99歳)だった。当時24歳の伊東は約千人の部下のうちその9割を失った。生還した伊東は戦後、戦死した部下たちの遺家族に沖縄の土を同封した600通の“詫び状”を送り、356通の返書を受け取った。約8年前、ある偶然の出会いをきっかけに、伊東さんからこの返書の束を託されることになった浜田夫妻はNPO「みらいを紡ぐボランティア」を立ち上げ、学生たちとともに気の遠くなるような「留守家族」探しの旅に出る。
「姿は見えなくとも、夫は生きている。私の心の中に」、「軍人として死に場所を得た事、限りなき名誉と存じます」、「肉一切れも残さず飛び散ってしまったのですか」、「本当は後を追いたい心で一杯なのでございます」、「白木の箱を開けると、石ころが一個。それだけだったのよ」…。本書にはわが子や夫の死を悲しむ肉親の返書が25通収められている。敗戦後70年以上の時空を隔てる旅は難航を極めた。消息を尋ねる電話が「振り込め詐欺」に間違われたり、警察官さながらの“地取り”調査をやったり…
北海道出身の多原春雄伍長(享年25歳=推定)は敗戦の1945年(日付は不明)に糸満市内で戦死した。「母として、確報を受けないうちは、若しやと思い…」―。母親のサヨさんが伊東さん宛てに返書をしたためたのは敗戦翌年の6月。そして80年近い歳月を経て、この返書を受け取ったのが春雄さんの甥(故人)の妻である良子さんだった。また、えっと思った。アイヌ民族の血を引く多原良子さん(71)が卑劣なヘイトスピーチを繰り返す女性国会議員を相手に、人権救済の申し立てをしたことは記憶に新しかった。北海道の記者時代、アイヌ民族の復権運動の先頭に立っていた多原さんの姿を懐かしく、思い出した。縁(えにし)の不思議に興奮しながら、私は机の引き出しから変色した葉書の束を取り出した。
太平洋戦争の敗色が濃厚になった1944年夏、私の父は旧満州(中国東北部)に応召された。4歳になったばかりの私に父の記憶はない。敗戦後、ソ連軍の捕虜となり、シベリアの大地に没した。享年37歳の若さだった。葉書は戦地から送られてきた軍事郵便である。「記憶」の“郵便配達”役を見事に果たしてくれた浜田夫妻に感謝しながら、私は「父さんはどんなところで死んだのかねぇ」と繰り返し口にしていた、いまは亡き母親の言葉を反芻(はんすう)していた。
何十年振りかで「浜ちゃん」に連絡を取った。デブの浜ちゃんは61歳になっていた。実は夫妻の本拠地は世界遺産の白神山地がある青森県深浦町である。「みらいを紡ぐボランティア」には多くの学生たちも参加。沖縄戦の戦没者の遺骨収集だけではなく、白神の森と生き物たちやその文化を記録する活動も続けている。
返書を朗読する若い学生ボランティアとそれを受け取る遺家族たち…。双方の目には涙が。この光景に何度ももらい泣きした。世代をまたぐ「記憶」がバトンタッチされる、その瞬間に感動する涙だったのかもしれない。それにしても一体、このエネルギーはどうやったら生まれるのだろうか。齢(よわい)84の老いぼれは浜田夫妻からドスンと背中を押された気持ちになった。
(写真は「死者は生者の中に生きる」(保坂正康氏)、「人間は信頼できる存在なのである」(佐藤優氏)などの激賞を受けている本書)