花巻版「歴史秘話ヒストリア」―その2の5(玉砕の島「硫黄島」秘史=完)…「昭和」から「令和」へ:はなめいと|岩手県花巻市のコミュニティ
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花巻版「歴史秘話ヒストリア」―その2の5(玉砕の島「硫黄島」秘史=完)…「昭和」から「令和」へ
2019.04.10:Copyright (C) ヒカリノミチ通信|増子義久
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●《第8話》〜なにが、そうさせたか
グリフィンは、彼の自殺の動機として耳にしたとして、職に就けないこと、メンツの失墜への恐れ、日記探しが叶わなかったこと、自分ひとりが生き残った罪悪感、海軍魂の壊滅、などをあげるとともに、日本に住むよりも島に朽ち果てようとの見方もあった、と述べている。そして、生前の会話で、山蔭が「この島には陸戦隊七千人を含む二万三千の部隊がいたが、助かったのは私のほかに百五十八人しかいませんよ。そう思うとつらい」と語っていた、と漏らしている。
5月14日付の毎日新聞は「死はすでに覚悟」「残された遺書と記録」という見出しのトップ記事で、『遺書 私が今度硫黄島に行くについて大野(利彦)さんへ万一の場合を思いお願いしておきます。どうせ私が無事帰れない時は現在私の書いている原稿を出版していただきたいと思うのです。―中略― もしぼくが帰らない場合、せめて一人の母親への最後の孝行として、そのお金を母親のところへ送ってもらいたいのです。また私の持物も私が死んだら母親のもとへ送ってください ―後略―』
山蔭光福の遺骨は13日、立川空港にもどった。戦前戦後通じて4年4ヵ月ほどの島での日々、帰国後2年3ヵ月ほどの日本での生活。19歳の青年兵士は、26歳での自死を選んだ。江東区の寄宿先に上記の内容を書き残し、10日間帰らなかったら、硫黄島での上官だった大野に渡すよう言い置いていた。遺骨を引き取りに上京したのは実兄の本美で、彼の手に遺骨と原稿が渡された。後述する山蔭喜久治さんは、本美の長男である。
母親のハルは「何で死んだのか判りません」といい、上官だった大野は「身を投げた気持はあの恐ろしい戦争を体験したものだけが判るのではないでしょうか。私でも摺鉢山に登ったら飛びこまないという自信はもてない」と話している。
●《第9話》〜山蔭家を訪ねて
山蔭光福が生きていれば93歳。出身の岩手県花巻市を訪ねた。彼の生まれた昔からの花巻温泉から近いところに、畑に囲まれた静かな一軒があった。甥にあたる山蔭喜久治さんがいた。「叔父さんが帰国したのは3歳のときだったから、何も覚えていない」と言いつつ、位牌を見せてくれて、除籍謄本を取り寄せてくれた。たしかに、当時の話については進むことはなかった。ただ、仏壇に日夜線香をあげる雰囲気には、何か叔父を連想するかの静かな気配があった。喜久治さんは、派手な大型のサイドカ−を持つ。これが、生き甲斐のように思えた。記憶にない叔父との時代、年代の開きが際立ち、日本の70年間の変動の大きさを思わせた。
岩手県は、戦争への人的供給源だった。戦前の農業主体の経済基盤は、大家族の生計を維持しきれず、軍隊は二男、三男たちのいい就職先であり、糊口をしのぐ場でもあった。この湯本(元稗貫郡湯本村)は明治以来、西南の役の従軍6、八甲田山雪中行軍の遭難1、日清戦争従軍13、日露戦争従軍120・戦没11、第1次大戦従軍118・戦没9、さらに満州事変から太平洋戦争までの戦没は陸軍162・海軍26・軍属7・看護婦と学徒各1、と犠牲者も相当数にのぼる(角川地名大辞典)。光福の横須賀軍務時代には、同郷の一等兵がおり、硫黄島の空爆激化のころには隣村出身の一等兵がいた。地元出身の菊池武雄は終戦直前にマニラで戦死した。
戦争の記憶は次第に薄れる。そして、忘れたころに新たな戦争の準備――対外的な差別や嫌悪の情があおられ、あるいはもっともらしい理由づけによる軍事費の増大などが進められる。和平の維持高揚への外交努力が薄れていく。状況は異なるが、山蔭光福のような哀しみが再生産される土壌が生まれてくる。硫黄島のみならず、外地に眠るあの無数の遺骨は放置されたままで、国家は「徴兵制度」「国民皆兵」の政策を押し付けてきながら、その遺骨の収集・帰還の労を積極化させ、優先させる気配は乏しい。
兵士たち戦死者の霊だけは、いわば政府の手で形式的、強制的に靖国神社に祀られる。戦争遂行の責任者と一緒に祀り、その矛盾をも気付かずに、権力を握る政治家たちは年に2、3回、賑々しく靖国神社の舞台に姿を見せる。批判されれば、ごくわずかな真榊(まさかき)、玉串料をポケットマネ−だと言って奉納する。
それはそれとしても、遺族たちの思いは御霊(みたま)だけにあるのではない。本人の帰還が望めないなら、せめて身近な思いをとどめる遺骨にこそ触れたいのだ。形式的な御霊祀りか、肉親のせめてもの思いを遂げる遺骨の確保か。そこに、政府・政治家など権力者の、戦争犠牲者への認識の誤りがある。戦争というものへの国家の責任と義務について一過性にしか考えない。犠牲者周辺に残された悲しみの深さを知ること、そのせめてもの安らぎのためになすべき任務を果たすこと、ひいては戦争を「悪」とし、ふたたび引き起こさない大きな視点から常に取り組むこと…そのような基軸は持てないものか。
山蔭光福という一兵士が巻き込まれ、思いもよらない生還と死は、多くのことを今の70年後に語り掛けている。
(写真はクリント・イ−ストウッド監督の「硫黄島」2部作。いずれも2006年公開。硫黄島を題材にした日米の映画は6作にのぼる=インタ−ネット上に公開の写真から)
《追記》〜転載を終えて
華やかな「令和」は血塗られた「昭和」の延長線上に存在する。この自明の理が遠くにかすんでしまうかのような元号フィ−バ−である。わずか70数年前、この足元で起きた“戦争秘話”をきちんと記憶に刻んでおきたい。読売新聞記者から小説家になった故菊村到は、「山蔭光福」の数奇な運命を題材に『硫黄島』を書いて芥川賞(1957年)を受賞。2年後には宇野重吉監督の下で映画化された。
芥川賞受賞作の映画化となれば、今どきならビッグニュ−スにちがいない。ところが、このことを伝え知っている地元民はほとんどいなかった。「生きて虜囚(りょしゅう)の辱(はずかしめ)を受けず」(戦陣訓)―。「死者」が「生者」に生まれ変わることを許さない共同体の“掟(おきて)”が光福さんを死に追いやったのではないか―こんな妄想に取りつかれてしまった。光福さんと同じ時期に出征した私の父はシベリアの凍土に没し、二度と戻ることはなかった。