「老老」日記…老人コミュニティーと“自己責任”:はなめいと|岩手県花巻市のコミュニティ

はなめいと|岩手県花巻市のコミュニティ
「老老」日記…老人コミュニティーと“自己責任”


 

 「花っこがあれば、やっぱりにぎやがだな」―。「きれいだな」という言葉を期待していた私は一瞬、拍子抜けしてしまった。窓の外では途切れることのない雪がしんしんと降り積み、目の前のテレビはコロナばかり。「憂鬱(ゆううつ)は花を忘れし病気なり」と詠んだ「植物学の父」・牧野富太郎の生地、高知県佐川町が“植物のまちづくり”を手がけている(1月8日付当ブログ「首長の“通信簿”の雲泥の差!?」参照)という事実に「そうか、こんな時こそ、花か」とハタと心づいたまでは良かったが…

 

 私が“Yばあちゃん”と呼ぶ86歳の老婦人の歩行器の介添えが日課みたいになっていたある日、「世の中なして、こんたに住みにぐぐなったんだべな…。おら一日中、独りぼっちだす」とポツリともらした。さっそく、スーパ−に走り、野菊の束を買ってきた。ぺたんと床に腰を下ろし花をそろえながら、ボソボソとつぶやいている。「なあ、にぎやがになったべ。色っぺもちょうどいいな。おらな、猫っ子も大好きだ。むがす、10匹以上飼っていだごどがある。子猫が死ぬたんびにお墓をつぐって、毎日手をあわせだもんだ。おらは猫に守られでいるがら、長生ぎしてるんだな」―。部屋に2種類の猫のカレンダ−がつるしてあった。方言使いの名手でもあるばあちゃんの“孤独”の底がすこし、見えたような気がした。

 

 「高齢者住宅 情報開示拡大/廃業増 退去迫られたケ−スも」―。こんな大見出しの記事が今月4日付「読売新聞」に載った。「高齢者住まい法」に基づいて2011年度に制度化された民間賃貸住宅「サ−ビス付き高齢者向け住宅」(サ高住)の苦境を伝える記事だった。「自立・自活」ができる“元気老人”を受け入れるのが原則だが、コロナの影響もあって定員不足から倒産や廃業に追い込まれるケ−スが後を絶たない。全国のサ高住で暮らす高齢者の約3割は要介護3以上が占めるというデ−タもある。私が入所している施設でも定員30人のうち、まだ3分の2が空室のまま。入所者の動揺はこんな末端にまで広がりつつある。

 

 とそんなある日、歩行器を押して食堂に向かおうとしたところ、「すみませんが、その介添えは職員の私たちに任せてください。何かあったら、困るんです…」―。前後して、施設側との懇談会があり、トップがこう言ってのけた。「自立・自活を建前とする施設である以上、施設側に明らかな過失が認められない限り、基本的には自己責任ということになる」―。あまりにも杓子定規な受け答えにビックリ。切って捨てるような、あの言葉が老人コミュニティ−の現場にまで浸透していることにゾッとした。

 

 昨年12月21日午前2時32分―、岩手県を震度5弱の地震が襲った。私はベッドから飛び起き、夜勤の男性と一緒に入所者の安否を確認して回った。我がばあちゃんはこの大き揺れにも気づかず、爆睡していた。さ〜すが。幸い大事には至らなかったが、この期(ご)に及んでもなお「自己責任」を強弁する、その心性に正直怖気(おじけ)づいてしまったという次第である。「(サ高住が)“健康老人”だけでなく、要介護者の受け皿にならざる得ない状況を理解した上で、だからこそ施設側と入所者が互いに支え合っていくことこそが、このコロナ時代の新しいコミュニケ−ションの手法ではないのか」―。こんな私の訴えはいまのところ、施設側に届きそうな気配はない(1月4日付当ブログ「コロナ禍の老人コミュニティー」参照)

 

 「自己責任」を押しつけるというのであれば、やってみようじゃないか。私は耳の不自由な女性の入所者にお願いして、簡単な「手話講座」を開いたり、お年寄りたちを集めてトランプのババ抜きに興じるなどこの施設ならではの“新しい生活様式”を模索しようと考えている。ばあちゃんの介添え役を返上しようという気持ちはさらさらない。万が一の事態が発生したら、それは私自身の「自己責任」―それで結構じゃないか。「花っこあれば、やっぱりにぎやがだな」というその笑顔を施設全体に広げたいと願う。ちょっと、思考がアベコベになりつつあるばあちゃんが最近、「おめはわれの息子みでだな」とモゴモゴと口走った。当年とって80歳の“息子”だが、おふくろを見捨てるわけにはいくまい。

 

 利害を超えて、互いが支え合った「東日本大震災」(3・11)からもうすぐ、10年になる。コロナ禍の中で、あの「行ツテ」精神(宮沢賢治の詩「雨ニモマケズ」…「見て見ぬふりはできない」という”互助”の精神はどこかに消えてしまい、いままた分断と憎悪が日本中に渦巻いている。

 

 人類と感染症の歴史に詳しい長崎大熱帯医学研究所の山本太郎教授は「感染症と生きるには」と題するインタビュ−で、こう語っている。私はいま自身が身を置く足元の小宇宙にこそ、その萌芽があると信じている。「『3密避けろ』『大声で話すな』と、人との距離を保つことが求められますが、新たな近接性を模索していくことも必要だと思います。物理的な接触は減っても、共感を育める近接性のある社会です。そうした共感がヒト社会をつくってきたのですから」(1月15日付「朝日新聞」)

 

 

 

 

 

(写真は野菊をコップにいけるYばあちゃん=花巻市内のサ高住で)


2021.01.14:Copyright (C) ヒカリノミチ通信|増子義久
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