▼「見えない涙」と「涙ぐむ目」
  『見えない涙』というタイトルの詩集が知人から送られてきた。作者は敬愛する批評家で随筆家でもある若松英輔さん(51)である。「奥さまのご命日(7月29日)を控え、この詩集を送ります」という一筆が添えられてあった。26篇が収められた詩集のあとがきで、若松さんは宮沢賢治の詩「無声慟哭」(『春と修羅』所収)を取り上げ、その詩の内容についてというより、題名そのものに関して以下のように書いていた。  「『慟』は『いたむ』と読む。それは『悼む』と同義だが、『慟』の文字の方が、心の揺れ動くさまがいっそうはっきりと示されている。『哭』は『犬』の文字があるように、人が獣のように哭(な)くことを指す。こうした行為に賢治は『無声』という言葉を重ねる。本来ならば、天地を揺るがすような声で哭くはずなのに、声が出ない。哭くことが極まったとき、人は声を失うというのである。同質の現象は声ばかりではなく、涙においても起こる。悲しみの極点に達したとき、目に見える涙は涸れ、その心を見えない涙が流れることがある。悲しみの底を生きている人はしばしば、声に出して哭かず、涙を見せず暮らしている」  わが家からほど近い、北上川河畔に賢治が自耕したといわれる「下の畑」があり、その中央に「涙ぐむ目」という木製の標識が立っている。賢治は生前、8枚の花壇の設計図を残しており、そのひとつが「tearful・eye」(涙ぐむ目)である。設計原画ではひとみは黒色系のパンジ−、その周辺に青系のブラキコメ(姫コスモス)を配し、花壇の目尻と目頭に白い睡蓮(スイレン)の水がめを置いて、この花が開くと涙ぐむ目のように工夫が凝らされている。12年前、「下の畑」を管理する地元有志の手で模型が造られた。約130平方メ−トルの花壇には色とりどりの季節の花が絶えることがない。  「下の畑」のわきに、賢治が農作業の疲れをいやすために腰を下ろしたと伝えられる大きな石がごろんと転がっている。私も散歩のたびにその石を拝借して、しばしの瞑想にふけることがある。梅雨の合間のある日、いただいた詩集を手に散策に出かけた。川面を渡る風が肌に心地よい。遠方の高台に見えるのが、賢治が農民芸術などを講義した羅須地人協会の跡地である。ふいに、「涙ぐむ目」から「見えない涙」のひとしずくがこぼれ落ちたように思った。たとえば、以下のような詩篇である。妻が旅立って、もうすぐ一年になる。「声に出して哭かず、涙を見せず暮らしている」―そんな自分の姿を私はいま、見ているのかもしれない。 《旧い友》あたらしい友達で日常をいっぱいにしてはならない苦しいときもじっとかたわらにいてくれた旧友の席がなくなってしまう あたらしい言葉でこころを一杯にしてはならない困難なときもずっと寄り添ってきた旧(ふる)い言葉の居場所がなくなってしまう 言葉は思いを伝える道具ではなく共に生きる命あるもの だから人間は試練があるときもっとも大切な何かを求めるようにたった一つの言葉を探す たしかな光明をもとめわが身を賭して伴侶となるべき一語を希求する  《悲しさを語るな》 悲しさを語るな悲しみを語れ 悲しさの度合いではなくお前が背負った世にただ一つの悲しみを語れそれだけが還らぬ者への呼びかけになる 苦しさを語るな苦しみを語れ強き光を放つ苦痛を語れその営みは生きる意味の顕(あら)われとなる 愛を語るな愛する人を語れお前よりも お前の魂に近いその人を語れそれは未知なるお前自身を語ることになる  (写真は「下の畑」の中にある「涙ぐむ目」の花壇=花巻市桜町の北上川河畔で) 
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2019.07.07:masuko

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