▼〜IHATOV・LIBRARY(「まるごと賢治」図書館)の実現を目指して(その4)
  「この名の起こりは、花巻の町を流れる豊沢川の水の様に、新しい知識を次々に求め得ようという意味で、町内の有力者52人で発足している。毎月10銭を拠出して書籍を購入し、ひろく町民に読書を普及させるもので、この豊水社の伝統が明治41年、花城小学校に『豊水図書館』を設立するきっかけとなった。この様に忠次郎は文明開化の時代に自ら先頭に立ち、知識欲に燃えた青年達に読書をそなえつけた、その先駆者としての活動は、大いに称(たた)えてしかるべきである」―  私家本『心田を耕し続けて―小原忠次郎の歩んだ53年』(土川三郎編)の中にこんな文章が載っている。文中に登場する「忠次郎」は私の曽祖父に当たる「小原東籬」(忠次郎=1852〜1903年)である。花巻城にはかつて桜並木で有名な「東公園」があり、その一角に「鶴陰碑」と刻まれた石碑が建っていた。いまは市博物内に移設されているが、その碑にはこのまちの基礎を築いた194人の功労者の名が刻してある。その揮ごうの主が忠次郎であり、図書館の前身「豊水社」を創設したことでも知られている。私が図書館問題に人一倍の関心を持つのはこの家系のせいかなと思うこともある。  忠次郎に遅れること18年、のちに農業技術者として、内外で製糖会社などを率いた菊池捍(まもる=1870〜1944年)が同じ花巻の地に生を受けた。妻は北海道帝国大学の初代総長を務めた佐藤昌介の妹、淑子である。その家系の中に“豊水”精神を引き継いだ女性がいた。捍の長女の昌子で、いまも継続している「宮沢賢治の作品を読む会」の設立を呼びかけたその人である(7月24日付当ブログ参照)。来歴を調べていくうちに、その並外れた個性に圧倒された。  昌子は長年、町立図書館の司書を務め、読書の大切さの啓蒙普及に尽力した。そのエピソードはいまも語り継がれ、例えば当市出身の童話作家、柏葉幸子さん(71)はこう書いている。「返された本を胸にかかえて書架の間を音もなく行き来する姿は本の王国を牛耳る侍従長のようでした。今思えば私にとって彼女は物語の手先でした。彼女を、そのまま物語の主人公に使わせていただいたりもしました。そこにいる司書が素敵でなきゃつまらないと私は思うのです」(『花巻図書館50周年記念誌』)  「カランコロン、カランコロン」…。花巻市内の中心市街地に西欧風の洒落た建物が建っている。捍が大正15年に建設し、今年でちょうど100年を迎える「菊池捍」邸である。この建物の前を通るたびに私の耳元には今でも軽やかな下駄の音がこだまを繰り返す。「私はお絵かき」「じゃ、私はピアノに行くからね」「ぼくは英語の寺子屋さ」…。夕方近く、当時の小中学生の明るい声が路上にはね返った。  昌子の夫は著名なプロレタリア美術家の寺島貞志で戦後花巻に疎開し、絵画教室を開いていた。また昌子の妹、聡子(としこ)はピアノの先生だった。さらに、近くの浄土真宗「専念寺」の本堂では英語塾が開かれ、私はこっちに通っていた。ちなみにこの寺の長男は宗教学者の山折哲雄さん(93)。時折、臨時の講師として洒脱な説法をしてくれたことを思い出す。「花巻」図書館事始めに忘れてはならないもうひとりの人物がいる。  「この法律は、社会教育法(昭和24年6月)の精神に基き、図書館の設置及び運営に関して必要な事項を定め、その健全な発達を図り、もって国民の教育と文化の発展に寄与することを目的とする」―。「図書館法」(昭和25年4月)はその目的について、こう謳っている。図書館の“憲法”とも言われるこの法律を最初に手掛けたのは当市ゆかりの山室民子(1900―1981年)である。  母親の佐藤機恵子(旧姓=1874〜1916年)はキリスト教の伝道・慈善団体「救世軍」の創始者、山室軍平の妻で、花巻の素封家の家に生まれた。機恵子が菊池捍とほぼ同時代を生きた偶然にも驚かされる。民子は女性初の視学官(教育行政官)として、文部省課長(教育施設課)の第1号に就任し、図書館法の成立に尽くした。まるで、目に見えない糸で繋がれた“人脈図”に興奮しながら、私は柏葉さんの次の文章にまた、唸ってしまった。昌子・聡子姉妹のたたずまいについて、作家らしい観察眼でこう活写している(前掲記念誌)。ちなみに、柏葉さんにとって姉妹は読書とピアノの師匠だった。  「ピアノの先生(聡子)は日本人ばなれしたわし鼻ぎみで、トレンチコートをさっそうと着こなすキャサリン・ヘップバーンみたいな素敵な人でした。お姉さん(昌子)も素敵でした。髪をみだれなくお団子に結い上げて、銀縁の丸めがねに黒いワンピース、そして黒い腕ぬきをしていました。事務室で大きなマグカップから何かを飲む姿にさえあこがれました」―。その昌子は「作品を読む会」を立ち上げた経緯について、こう語っている。「『セロ弾きのゴーシュ』の面白さが忘れられずに“とりこ”になった。大きな平和を求めていた賢治の作品にふさわしいものにしたい」(昭和52年1月27日付「朝日新聞」岩手版)  何とも胸がときめくような光景ではないか。もう一度、あのさんざめくような街の雰囲気を取り戻したい。賢治の一切合切を集めた「IHATOV・LIBRARY」(花巻病院跡地の新図書館)と「菊池捍」邸とを結ぶ地平線上に私はこのまちの未来の姿を見てしまう。たとえば、そこには被爆地・広島を撮影したことで知られる昌子の弟の写真家、菊池俊吉(1916〜1990年)も待っているはずである。「文化と芸術」を抜きにして「イーハトーブ」を語ることは、「何も語らない」ことと同じである。   宮澤賢治の童話『黒ぶだう』の舞台といわれながら、「菊池捍」邸ではいまイベントが開催される風もなく、固くカギが閉じられたままになっている。実に不気味なたたずまいである(文中の氏名で敬称略の人たちは物故者)    (写真は昌子さんが司書をしていた当時の町立花巻図書館。今は市庁舎の分室になっている。市内城内で=インターネット上に公開の写真から)     《追記》〜79回目の「原爆の日」と菊池俊吉(コメント欄に写真掲載)  今日6日は79回目の「原爆の日」。文中の菊池俊吉氏は被爆後の広島などを撮影した写真家として知られる。彼の経歴を以下に紹介し、合わせてその記憶をいまに伝える1枚をコメント欄に掲載する。なお、菊池氏らの写真や映像はユネスコ「世界の記憶」の「広島原爆の視覚的資料―1945年の写真と映像」として、来年度の登録候補になっている(以下はウキペディアより) ※  1916年(大正5年)、岩手県花巻市御田屋町生まれ(旧「菊池捍」邸)。1937年(昭和12年)、オリエンタル写真学校を卒業後、1938年(昭和13年)東京光芸社写真部に入社し、報道写真家として始まり。1941年(昭和16年)岡田桑三が設立した東方社写真部に入社、1942年(昭和17年)2月に創刊された陸軍参謀本部の対外宣伝グラフ誌『FRONT』の写真部員となる。戦時中、日本本土及び外地の部隊、産業記録撮影など幅広く活躍した。  1945年(昭和20年)敗戦後、解散の東方社スタッフは文化社として再建。同年9月、文部省の学術調査団のもとで原爆被災地の医療状況を記録映画撮影、スチール写真担当として医学班に属し、10月1日〜10月22日被爆後の広島を撮影]。1946年(昭和21年)4月、焼け野原となった東京ドキュメントとして『東京1945年・秋』を出版。1947年(昭和22年)8月、復興中の広島をアピールするための写真集『LIVING HIROSHIMA (PDF) 』製作のために再び広島へ。  文化社の解散後、1951年(昭和26年)以降『世界』、『中央公論』、『婦人公論』などのグラビア頁を担当。科学雑誌に内外科学者のプロフィールと科学実験など科学分野の写真で知られた。1985年(昭和60年)、歴史的資料となる写真集『銀座と戦争』、『昭和の歴史』に作品が掲載。1990年(平成2年)、急性白血病により逝去、享年74。              
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2024.08.05:masuko

原爆ドームと畑を耕す女性

 菊池氏が撮影した被爆地・広島の貴重な一枚。後に広島市民球場となる練兵場跡で畑を耕す女性。後方に見えるのが「引揚者住宅」と原爆ドーム。撮影年月日は1947年夏とされる(インターネット上に公開の写真から)


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2024.08.06:

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