▼(敗戦74年特別企画);映画「硫黄島」と海軍水兵長・山蔭光福、そして朝鮮人徴用工
  「戦後4年目に2名の(日本)兵が出てきたのが最後であった」―。先の大戦で日米両国が死闘を繰り広げた凄惨な全貌を記録した映画「硫黄島」(1973年、98分)の後半部分にこんなナレ−ションが挿入されている。米国防省に未公開のまま保管されていた記録フィルムを日本人の手で編集したもので、この日本兵のひとりこそが当花巻市出身の海軍水兵長・山蔭光福(故人=出征当時19歳)である。この人の数奇な運命については、知人の追跡ルポを「玉砕の島『硫黄島』秘史」というタイトルで5回(2019年3月27日〜4月10日)にわたって、当ブログに転載した。詳しくはその文章を読んでいただきたい。  島へ向かう米戦艦。米海兵隊の上陸。進行する米兵。自動式大砲や火炎放射器による集中砲火…。今回、この映画を初めて見て、そのすさまじさにおののいた。山蔭水兵長はなぜ、降伏後4年間も洞窟の中で生き延びることができたのか。なぜ、せっかく生き延びた命を自ら断たなければならなかったのか―。1945年2月19日から3月26日までの「硫黄島の戦い」で、総兵力約10万人(上陸部隊約6万人)の米軍が硫黄島に上陸。栗林忠道中将率いる約2万人の守備隊は地下壕に潜伏するゲリラ戦法で対抗したが、火山の地熱で灼熱状態の中、補給も受けられずに飢えと渇きに苦しみながら大半が戦死した。米軍側の戦死者も約6800人に達し、米軍死傷者が日本軍を上回った唯一の戦いとなった。追跡ルポの中にこんな記述がある。  「それでも山蔭は地下5メ−トル、横穴の深さ10メ−トルの壕掘りや砲台つくりに追われた。炎天下に与えられた水はわずか1合、食料供給の輸送船は月に1、2回になって主食は4割減といった状況だった。12月になると、1日1回程度だった米軍の空襲が2回3回と増え、B24、B29機による連続爆撃は夜間30分おきとなり、一度に5キロ爆弾を数百発も落とされる事態になっていた。翌年2月になると、3つの空港のうち一つが、その2日後には島の4分の1が占領された。そこで、上陸した米軍への斬り込みが計画され、55人の砲台員は半分ほどに減り、3月12日には生存者は山蔭を含む6人だけになっていた」  映画の中ではこんなナレ−ションが流れる。「運の良かったものだけが生きて帰る。これが戦(いくさ)というものであろう。誰が一体、勝ったのか。生き残った者だけが勝ったとも言えるのではないか」―。両手を頭上に掲げ、洞窟の中から出てくる兵士の姿に一瞬、虚を突かれた。本土防衛のため、「最後の一兵まで」を口にしていたのが日本軍ではなかったのか。ナレ−ションはこう続いた。  「3月5日、洞窟の中から初めて、人間が姿を現わした。強制的に徴用され、飛行場や陣地の構築に使われた朝鮮人労務(働)者たちがアメリカ軍の降伏の呼びかけに応じて出てきたのである。約2000人いたというが、そのうち、何人が生き残ったのか、その正確な数は今もってわかっていない」―。この光景を目の当たりにしながら、私の脳裏には「人身御供」(ひとみごくう)という言葉がよぎった。捕虜の取り扱いに米軍がどう対応するのか…日本軍はそのことを知るために朝鮮人を米軍の前に差し出したのではないか―という思いにとらわれたのである。いま、日韓が鋭く対立している「元徴用工」問題の原風景と日本の植民地支配の原点がここにある(コメント欄の写真参照)。  奇跡的な生還を果たして帰国した山蔭水兵長は昭和26年春、潜伏期間中に書き残した日記帳を取り戻すためにふたたび、硫黄島に渡った。日記帳は判読ができないほどボロボロになっていた。同行した極東空軍司令部の歴史家員、スチュア−ト・グリフィンはその様子をこう証言している(5月10日付「毎日新聞」)。「山蔭君が飛び降りたのは摺鉢山旧噴火口から約90メ−トル離れた地点であった。山蔭君は突然、両手をさしあげ『バンザイ』と叫びながら、狭いがけの突出部から身を躍らせた。そのため、落下する姿はマザマザと目撃された。険しいがけの中腹に同君の身体が最初に激突したとき、火山灰がもうもうと舞い上がった。もち論即死だったろうが、その身体は何度もがけの突出部にぶつかりゴロゴロと転がりながら、落ち込んで行った。午前10時半ごろだったろう」―  山蔭水兵長はいったん、生き残ったという意味では「勝者」である。しかし、その命を自ら断ったという意味では同時に「敗者」でもある。「太平洋への死の跳躍=v、「摺鉢山で硫黄島生き残りの山蔭君」、「探す四年の洞窟日記=v、「ナゾ解けぬ彼の死」…。スチュア−トの記事にはこんな見出しが躍っている。いまとなっては、その死はナゾの彼方に葬り去られたままである。玉砕のもくずと消えたその「生と死」を詮索することに何ほどの意味があろうか。ただひとつ、言えることは―「戦争には勝者も敗者もない」ということであろう。映画なこんな言葉で閉じられている…「硫黄島は太平洋に浮かんだ悔恨の記念碑である」。日本は今日8月15日、74回目の敗戦記念日を迎えた。   (写真は硫黄島の要塞「摺鉢山」に掲げられた星条旗。米ワシントンDCにある、アーリントン国立墓地近くの海兵隊戦争記念碑(硫黄島記念碑)にこのブロンズ像は建っている=インタ−ネット上に公開の写真から)  《追記》〜いまも続く戦争の傷跡  「硫黄島からのはがき/花巻出身・滝田さん遺品」―こんな大見出しの記事が8月15日付「岩手日報」に掲載された。当時、山蔭水兵長と同じ19歳だった花巻出身の滝田清吾さんは1945年3月に硫黄島で戦死した。今回、米兵の家族から返還されることになった軍事郵便には「私も変わりなく日夜、戦いに又作業に精致して居ります。故里(ふるさと)も、今や雪にとざされ、寒さ厳しき頃でせう」などと書かれている。私の手元にもシベリアで戦病死(栄養失調)した父の軍事郵便の束が残されている。戦争の傷跡は絶えることがない。作家の故菊村到は山蔭水兵長を題材に『硫黄島』を書いて芥川賞(1957年)を受賞。2年後には宇野重吉監督の下、同名のタイトルで映画化された。     
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2019.08.15:masuko

硫黄島と朝鮮人徴用工ー1

映画「硫黄島」に記録されている一連のシーンを以下に転写する。いずれも朝鮮人強制連行(徴用)・強制労働の決定的で動かぬ証拠である。救助されたものの、その場で息絶えた者や解放に喜ぶ朝鮮人労働者の表情が写し取られている。中には「遺書」を思わせる、日本語で書かれた紙片もある。


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硫黄島と朝鮮人徴用工ー2

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