▼「新図書館」構想S 図書館今昔物語…コロナと“知の殿堂”
  図書館関連の予算案を撤回するという前代未聞の花巻市の「新図書館」騒動から気が付いてみたらもう2カ月以上たった。事実上の「白紙撤回」を受け、本来なら喧々諤々(けんけんがくがく)の論争を起きているはずだったが、コロナ禍の陰ですっかり脇に置かれた感がある。その一方で、ステイホ−ムを強いられた側からは逆に「知の殿堂」としてのその役割を再認識する声も聞かれるようになった。こんな中、「集合住宅付き図書館」構想という奇怪な当局案に反対ののろしを上げた花巻市議会の「新図書館整備特別委員会」(伊藤盛幸委員長)の小委員会が12日に開かれた。こっちの動きからも目が離せない。  市中心部に位置する旧花巻城跡地(元新興製作所敷地)はそうでなくても荒寥たる風景が寂しさを募らせるが、今回の未知のウイルスがその気持ちをいっそう、強くしてしまう。のっぴきならない用事で最近、その近くを通った。のんびりとした遠い昔の城のたたずまいを懐かしく、思い出した。単なる懐古趣味ではない。かつて経験したことのない“パンデミック”の脅威からから一時でも逃げ出したかったというのが本音である。私事にわたって恐縮だが、わが家の「家系史」をさかのぼる気晴らしの旅にしばし出かけようと思う。もし、よろしかったら…  花巻城にはかつて桜並木で有名な「東公園」があり、その一角に「鶴陰碑」と刻まれた石碑が建っていた。いまは市博物内に移設されているが、その碑にはこのまちの基礎を築いた194人の功労者の名が刻してある。その揮ごうの主が私の曽祖父に当たる「小原東籬」(忠次郎=1852〜1903年)という人物だった。「この人は初めて図書館を造った偉い人だったんだよ」と語っていた祖母の言葉が往時と重なった。そういえば、花巻市史などの文献にはこうある。「明治時代の筆札(ひっさつ=教師)のかたわら、書家の大家としても活躍し、53歳で没するまで小学校の教師生活を続けた。その一方で、図書館の前身である『豊水社』を創設したほか、花巻リンゴ会社や花き栽培奨励のための花巻農政社なども立ち上げた」  市内の4図書館はコロナ禍の影響で早々と3月2日から全面休館に踏み切り、その後3月中旬に部分開館されたものの、今月いっぱいは土日だけのオ−プンとまだ不便が続いている。この日の小委員会では「当初、建築場所の選定などの調査を委託をしたUR(都市再生機構)の答申案にはJR花巻駅前以外の候補地も含まれていた。しかし、当局案にはこの経過は一切触れられていない。今後は議会独自の対案を模索し、市民の意見を反映した図書館像を示していきたい」という前向きな姿勢が目立った。  知的な飢餓状態に置かれる日々…今回の「コロナパンデミック」が価値観の転換を促していることを肝に銘じ、議会側には宮沢賢治の理想郷「イ−ハト−ブ」にふさわしい“日本一”の図書館建設を目指してほしいと切に願いたい。曽祖父が「豊水社」を結成したのは奇しくも「文明開化」のさ中の明治18(1885)年だった。郷土史家の佐藤昭孝さんがその業績を記録に残してくれている。  「この名の起こりは、花巻の町を流れる豊沢川の水の様に、新しい知識を次々に求め得ようという意味で、町内の有力者52人で発足している。毎月10銭を拠出して書籍を購入し、ひろく町民に読書を普及させるもので、この豊水社の伝統が明治41年、花城小学校に『豊水図書館』を設立するきっかけとなった。この様に忠次郎は文明開化の時代に自ら先頭に立ち、知識欲に燃えた青年達に読書をそなえつけた、その先駆者としての活動は、大いに称(たた)えてしかるべきである」(私家本『心田を耕し続けて―小原忠次郎の歩んだ53年』=土川三郎編所収)  曽祖父が図書館の立ち上げを思い立ったのは、福沢諭吉が『文明論之概略』の中で、この時代を”文明開化”と名づけた、ちょうど10年後のことである。その文明がいま、「新型コロナ」という名の未知のウイルスの前で立ち往生している。  そんな時代もあったねといつか話せる日が来るわあんな時代もあったねときっと笑って話せるわだから今日はくよくよしないで今日の風に吹かれましょうまわるまわるよ 時代はまわる喜び悲しみ繰り返し今日は別れた恋人たちも生まれ変わって めぐりあうよ (中島みゆき「時代」)    (写真は文学や武芸、書画、俳諧など諸学・諸芸の人士194人の名前が刻まれた「鶴陰碑」=インターネット上に公開の写真より)   
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2020.05.12:masuko

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