春雨庵と沢庵禅師(はるさめあんとたくあんぜんし):やまがた花回廊

おきたま花回廊
春雨庵と沢庵禅師(はるさめあんとたくあんぜんし)


沢庵禅師(たくあんぜんし)は「沢庵漬け(たくあん漬)」の考案者としても余りにも有名です。当時、上山藩主だった土岐頼行は、この沢庵禅師の為に草庵を寄進しました。この草庵を「春雨庵」と沢庵禅師は名づけました。

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沢庵 宗彭 ( たくあん そうほう )(1573-1645)

沢庵 宗彭 ( たくあん そうほう )

『心さえ潔白であれば身の苦しみは何ともない。』
1573〜1645 (天正元年〜正保2年)
【臨済宗の僧】 品川東海寺を創建。タクアン漬けにその名を残した禅僧。

江戸初期の臨済宗の僧。大徳寺に入り、1609年、住持となる。紫衣事件で幕府に抗弁書を提出したことで幕府の怒りを買い、出羽の国(山形県)は上山に配流された。後、許されて京都へ帰ったが、柳生宗矩の勧めにより三代将軍家光が相談役になり、品川に東海寺を興した。詩歌、書画、茶道、武道の知識が深く人柄も優れていた沢庵に徳川家光は感動し、品川に東海寺を建て沢庵に寄与。彼がなくなるまでの7年間に家光は、沢庵の教えを受けるため75回東海寺を訪れた。
2005.10.16:ヤマガタン事務局 [修正 | 削除]
紫衣事件(しえじけん)<江戸時代・1627年>

紫衣事件(しえじけん)<江戸時代・1627年>

「紫衣事件」

紫衣事件とは、後水尾天皇(ごみずのおてんのう)が、幕府に計らず与えた「紫衣(しえ)」を幕府が取り上げた事件の事。紫衣とは、高位・高徳の僧に着用が許される紫色の法衣のことで、本来は、朝廷が与えるものでしたが、「禁中並公家諸法度」により、幕府に計らないで与えることができなくなりました。

この事件に反抗した僧(沢庵漬けで有名な)沢庵和尚は流罪になり、後水尾天皇は、幕府の横暴に反発する形で、譲位することになりました。

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上山藩主「土岐頼行」の手厚いもてなし

上山藩主「土岐頼行」は、幕府の囚人となった沢庵を上山で丁重に迎えた。

敬愛する沢庵のため小さくも豪華な草庵を建立。沢庵は春雨にけむる閑静な庵をこよなく愛し「春雨庵(はるさめあん)」と名づけた。

頼行は歌人としての沢庵を慰めるために、領内はもちろん、山形領をはじめ松島まで歌枕をたずねる遊覧の旅を取り計らったりもした。悠々自適の生活をおくる。

沢庵は「上中下三字の説」という政治の要諦を説いた一文を土岐頼行に贈った。これは上(=主君)中(=家臣)下(=領民)相通ずるの心をむねとして政治を行うべきことを諭したもの。

頼行は座右の銘として藩政に当る。上山城主歴代の藩政における黄金時代とも称されるほどの安定した政治を全うした。
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沢庵漬の生まれた背景

品川の東海寺を訪ねた徳川家光に、沢庵が「禅刹何も珍物これなく、たくあえ漬香の物あり」と、当時でいう「貯え漬」を献上すると、「貯え漬にてはなし。沢庵漬けなり」との家光が言ったのをきっかけに「貯え漬」が「沢庵漬」と呼ばれるようになったという説がある。
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沢庵禅師を偲びつつ抹茶をたのしめます。

復元された春雨庵があり、沢庵のご尊像と茅葺屋根のすばらしい茶亭(望岳軒や聴雨亭)及び美しい茶庭、石佛等が配されている。今でも茶会が開催されます。

山形県上山市松山2-10-12
営業 8時〜17時 休日 第3日、及び前日の土
見学無料、抹茶(要予約)500円
駐車場あり(無料)10台
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