勤続30年:壱岐産業

壱岐産業
勤続30年


<1987年東北自動車道が盛岡まで開通>

 

おかげさまで、今月1日で勤続30年目を迎えました。

社長が勤続という言葉も変ですが、2代目として父が脱サラして立上げた会社に入社したのです。

 

時は1987年。バブル真っ盛り。

就職環境は良かったわけですが、あえて困難な道(少なくても自分ではそう捉えていました)を

選びました。

 

青年海外協力隊員として中米コスタリカで2年間活動してきたのですが、その中で学んだことが、

家族の助け合いの大切さでした。

 

2年間現地で下宿をしていました。決して裕福とは言えない家庭でしたが、おじいさんも孫も、

みんな家の手伝いを率先して行って、家族の団らんタイムを楽しんでいました。

 

そんな経験から、旅行代理店で旅行企画の仕事をしたい、という方向性を変更して、

立ち上がったばかりの家族企業壱岐産業に入社したのでした。

 

あれから30年。ふり返ればもちろんいろいろありますが、2点に絞って語りたいと思います。

 

1つは東北人の温かさを感じた30年だったという点。

 

営業マン時代、主に担当したのは秋田、山形、新潟という日本海側の3県。

当然、冬は雪が当たり前。

 

出張からの帰り道、それまで大雪でワイパーを高速にしても前方が見にくい、という状況から、

トンネルを抜け、奥羽山脈を越えた途端、お月さまと星空!っていう峠マジックを

毎度毎度経験してきました。

 

今は交通事情がよくなりましたが、当時は豪雪のため、道路交通がマヒすることはしばしば。

お客さまとの約束時間に間に合わない、ってことで、途中公衆電話からお詫びの電話を入れた

ことが何度もありました。

 

そんなとき、ほぼ100%、「大丈夫だよ、こんな天気だからね」と言ってくださり、

事実、その言葉どおり温かく迎えてくださいました。

「こんな天気の日によく来たね」と慰めてもらう始末。

 

まあ、今思うと、もっと余裕を持った行動をすればよかったのですが、

それにしてもそういう温かさが身に沁み、東北が大好きになった理由の大きな一つです。

 

2つ目は、営業という仕事についてのスイッチが入った瞬間について。

 

20代のころの仕事ぶりは、今思うとひどいものでした。

長時間労働をいとわず、お客様に良いものを伝えたい、という思いは合格点だったと思いますが、

お客さまからの頼まれごとの管理がまったくなっていませんでした。

 

漏れが多かったのです。それは漏れができない仕組みがなかったからなのですが、

その漏れに対して厳しく律する心がなかったというのが最大のダメ部分でした。

 

そして、そういうことは一事が万事。あるとき、お得意様からお叱りを受けました。

「商人だったら商人らしくしたらどうだ」と。

 

「商人?」

 

自分の中で、商人としての誇りや覚悟がまったくできていなかったのでした。

だから、商人、と言われて、変な気持ちだったとともに、そうか、自分は商人なんだ、

商人としての道を究めなくては、とスイッチが入ったのでした。

 

商人は、相手の喜ぶ商品サービスを考え、その価値が相手にしっかり伝わるように工夫し、

実際に購入していただき、社会を潤滑に回す、そしてお互いが満足する。

 

そんなとても価値のある仕事だと今は胸を張って言えますが、当時はまったくそんな段階では

なく、仕事時間以外で仕事のことを考えることはほぼありませんでした。

 

おかげさまで、その後いろいろと多角的に勉強を重ね、

特にセルフマネジメントについては、18年かけて独自の技術を構築してきました。

 

まあ、それもこれも自身の健康と家族の支え、社員皆さんのがんばり、そして多くのお客様、

お取引先様、友人知人の励ましなどのおかげさまです。

 

年末のこの時期この場をお借りして、感謝の念を深めたいと思います。

ありがとうございました。


2016.12.29:Copyright (C) HASEGAWAs NOTE
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