▼ハモコミ通信2024年4月号
生活に取り入れたり、仕事で生かすなどしていただけると本望です。 ◎母とコロッケ(ハモコミ通信2020年8月号A)あれは小学四年、夏休みのことである。もう 50年も前のことなのに今でも私はコロッケを見るたび母を想う。あのひるめし時、無言で耐えてくれた母の姿か ら、私は大きな教訓を学んだ。業界で、「あいつは口の堅い男」と私を評価してくれる向きもある。だとすれば、母の教えが現在も生きているのである。戦前の食生活、それは貧しい、の一語に尽きる粗食だった。カツ、コロッケ、バナナなど、いま常食になっているものさえめったに食卓にはのらなかった。麦飯に漬物、これが農村の年間メニュー、現代のヤングには理解しがたい一面であろう。貧乏だったわが家もそれ。私は、その日のことがあるまでコロッケに大きな願望を抱いていた。「一度でいいから食ってみたい」と。その日、私は街に用事のある母に連れられて一緒した。帰り道のこと肉屋の前にさしかかると、いい匂いが漂ってきた。見ると、コロッケを揚げている。「かあちゃん、コロッケ買って!」 私はほとんど衝動的にせがんだ。母は私をチラッと見ながら、「そんなムダ遣いしたら父ちゃんに叱られるじゃないか。さ、帰ろ」と私の手を引いて行きかけた。「いやだぁ、一回でいいからコロッケが食いたいよ、かあちゃん」 この声に母の足が止まった。私の顔をのぞき、その視線を店先へ移した。「清次、そんなに食いたいのかい?」「うん。学校で食ったことのないのはオレだけなんだもの」「……」母の思案している気持ちが、つないでいる手の 温もりを通して私に伝わった。「コロッケなんか買ったら父ちゃんの雷が落ちる んだから。母ちゃん知らないよ」そういう母だったが、足はもう店頭へ歩きはじめていた。その日のひるめし時がきた。 母と5人兄弟が膳につき、父も座りかけた。私は、コロッケが食べられる幸福感と、起こるであろう父の怒りへの恐怖が入り交じって、体を堅くしながら食卓と父を見比べた。「なんだ、このお菜は!」膳を見るなり父の怒声が母へとんだ。食卓には、コロッケの盛られた皿と漬物が山盛りの大ドンブリが並んでいる。私は反射的に母を見た。 清次がうるさく言うから仕様なく、の母の言葉が当然出ると覚悟した。だが、母は無言、うつむいたままだ。「……」「何て考えなしの買い物をする!メザシでも買っ たらよかったのに。こんなぜいたくする銭は、うちにはねえ」父は声を荒げて母をなじった。 うつむいたままの母が言った。「いくら貧乏してたって、たまには他人様の子が食ってるもんぐらいは食わして……」 小声で語尾は聞き取れなかったが、私のことはおくびにも出さなかった。父はなおくどくど言い募ったが、その後の母は視線を膝に落とし口をつぐんだままだった。途中から、私は母にむしゃぶりついていきたい衝動が、心いっぱいにあふれてきた。「かあちゃん、ありがとう」と。父の怒りもやっと静まり、みな箸を取った。生まれて初めてのコロッケのうまかったこと。あの味覚はいまも鮮明におぼえている。食事は終わった。「みんな、うまかったかい?」 母は優しいまなざしで私らを眺めながら聞き、 視線を私にとめて言った。「清次、うまかったろ!」 母の目が、笑っていた。この小さな出来事は単に忘れられないにとどまらなかった。私の成長につれ、出来事もまた心の奥で発酵し、熟成し、現在、私の処世に欠くことのできない美酒となって芳香を放っている。子供のころは、かあちゃんが黙ってくれたので叱られずに済んだ程度にしか考えなかった。だが、年が経つにしたがって、出来事は深さも重さも増してきた。“告げ口はすべきでなく、相手の側に立って、言う言わないを決める。これが信頼の基本だ”  というふうに育ってきた。結婚し、子を持ってみて、“無言” の大切さは身に沁みて心に根付いている。「清次、うまかったろ!」の母の一言は、私にとってどんな名曲を聴くより感動的な響きを秘めて いる。まもなく還暦を迎える今でも、コロッケを見るたびに、無言の母の姿がまぶたにくっきりと浮か び、胸を熱くするのである。☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆<コメント>イエローハット創業者でNPO 法人「日本を美しくする会」の創唱者、相談役である鍵山秀三郎氏が、講話の中で引用してくださったお話です。昭和初期の貧しかったころの日本。経済的には貧しくても、家族のこのようなやり取りは、実に心豊かとしか言いようがありませんね。何度も読んだはずなのに、またまた目頭が熱くなりました。この話は、これだけでも十分心が洗われると思いますが、実は別のところで、もう一つ大切なことが語られていたそうです。それは、コロッケのある食卓を見た父親がどうして怒りを鎮めたか、についての次の描写。 ◆ひとしきり、無駄遣いをした母親を責めた父親があることに気付くのです。子供5人と夫婦2人。コロッケは、7つになるはずです。しかし、皿に盛られたコロッケは、6つしかありませんでした。母親は自分の分を買ってきてはいなかったのです。それに気づいた父親は、無言で一つのコロッケを二つに分けると、半分を母親の皿に乗せたのです。それを合図に子どもたちもコロッケにお箸を伸ばしたのです。 ◆ 地震雷火事親父。良い面悪い面、両方あったと思いますが、父親という役割がハッキリしていて、わかりやすい時代。怒りの中でも、コロッケの数に気づき、そっと2つに分けて妻に半分を分けた夫。。。新年度、新たな希望に燃えていらっしゃることでしょう。心を置き去りにすることなく、張り切ってまいりましょう!  ◎愛の電報 (ハモコミ通信2005年8月号)今のような便利な時代ではない昔、本当にあった話です。ある夫婦がいました。知り合ったときから、お互いの波長が合うことを感じました。知り合って1年後には結婚。そしてその数ヶ月後…彼の仕事は、観測や調査の仕事です。そんな彼が、越冬南極観測員に選ばれたのです。そして、単身南極に旅立ちました。想像を絶するような寒さ、そして孤独。彼女だって、それ以上の心の孤独とのたたかいです。 半年ほど経ったときに、彼女は、どうしても愛している彼に、メッセージを伝えたいと思いました。そのときに、アタマに浮かんだのが『電報』です。何度も何度も書き直します。伝えたいことが多すぎて書けません。書いても書いても本当の気持ちにならないんです。電報だから長い文章は送れないし、カタカナ文字になるのです。あなたなら…何て書きますか?気持ちやメッセージを伝えるのに、スタイルを守ると余計に伝わらない。彼女は、通りいっぺんの、「ゲンキデスカ?」「マッテルヨ」「アイシテル」そんな言葉では、今の気持ちが伝わらないことに気づきました。彼女は何と書いたと思いますか?それはたった3文字。「ア・ナ・タ」☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆<コメント>令和の御代には、逆に想像が難しいかもしれませんね。電報しかコミュニケーション手段がなく、しかも字数制限があり、カタカナのみなんて。しかし、この制限の意味がわからないと、愛する夫を気遣う奥様の心が感じ取れないかもしれません。昭和世代の私などは、即、涙腺崩壊です(笑)。
→画像[ ]
2024.04.01:壱岐産業

トップへ
(C)壱岐産業
powered by samidare
system by community media (Free CMS)