長井まちあるき物語  薬師寺薬師堂:長井市観光ポータルサイト

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長井まちあるき物語  薬師寺薬師堂


山形県長井市。それは、水と緑と花の奥座敷・・・・・
ゆっくりと まちなみに ふれてみませんか・・・・・
魅力あふれる 深い建物を醸し出す風景に 足を運んで下さい

(資料:長井市史、神奈川大学工学部建築学科 西和夫 長井市歴史建造物調査報告書、文教の杜)



  薬師寺は、あら町地区の北西に位置し、敷地のすぐ西を木蓮川が流れています。境内の中央に薬師堂・本堂と北方向へつながり、南東に位牌堂を配します。それらの周辺には江戸時代における長井の文化を語る俳句・川柳などの文化人の墓碑類が数多く見られます。現当主の佐藤真琴氏は四代目で、佐藤家は大正11年(1922)に遍照寺の住職となり、その後、明治38年(1905)から薬師寺に移り、代々受け継いでいます。薬師堂には薬師如来・西国三十三観音像・不動明王など数多くの仏像が安置され、祭礼は8月1日、賑やかに行われます。位牌堂には、室町時代初期の作とみられる釈迦如来座像が安置され、「釈迦如来座像は、像高1尺8寸。木造、古色、彫眼、肉髻珠欠失、白毫後補。当初は彩色されていたかと思われ、もとは花作の釈迦堂の本尊であったが、釈迦堂が荒廃しので薬師寺に移された」と長井市史にあります。長井市の文化財に指定され、運慶作という言い伝えもあります。






  構造は、木造、入母屋造り、鉄板葺き、妻入り。柱は四角柱、入側柱2本のみ円柱とし、外壁は白漆喰塗仕上げ、南面と西面には補強材として上から竪板を張っています。長井は西風が強いため、平成になってから張り付けられました。側廻りは足固貫(ぬき)・内法貫・頭貫で固め、柱上に出三斗(でみつと)を組み、軒は一間です。東側正面に一間の向拝を設け、東側と南側に二方に板敷きの縁を廻し、南側縁の突き当たりには羽黒山の不動明王が安置されている小部屋が付属しています。不動明王は、西根の廃寺の際に破棄されかけたものをお坊さんが担いで運んできたといわれています。また、かつてはこの位置に脇障子(しょうじ)が付いていました。間口2間半、奥行3間の規模で、設計基準は真々7尺。建築年代は、御当主聞き取りにより明治6年(1873)です。薬師堂は慶応元年(1865)9月5日、明治5年(1872)4月12日の大火により二度焼失しています。また、この堂には慶仁2年(1468)の扁額や寶暦12(1764)の棟札なども確認できたが、それらは寄進されたものだといいます。
  内部は、天井を竿縁天井。畳と天井は近年張り替えたもので、向拝も近年になってから作られたものです。生活の利便性を考え、薬師堂の北側一部の壁をガラス戸に変え、本堂とつなげられています。舟肘木(ひじき)が途中で切れているものがあり、以前は建物がそこまでしかなく、あとは外部であったことが考えられます。
  「長井薬師堂は、奥羽三十六薬師霊場のうち二十八番霊場です。薬師如来は大医王と呼ばれ、東方にある浄土におられ、瑠璃(るり)と呼ばれる宝石がごとく美しく輝いている世界の主人公。ここの薬師如来像は普通の像と異なり、胎蔵界大日如来そのものが薬師如来の姿として衆生を救うお姿と思われます。手の印相が少し宝形に見え、薬壷の置かれている手のひらの中心に竹の釘が上向きに残されています。薬師如来の厨子(ずし)に天文24年(1555)の銘があります。










竹田太橘の句碑。幕末俳壇の老大家として、郷土俳諧の全盛期をリードした


2014.04.23:Copyright (C) 読みもの長井物語
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