▼「運命は冷たいけれど摂理はあたたかい」(渡辺和子著)から
「忘れかけていた大切なこと」の本の中に、「運命は冷たいけれど摂理はあたたかい」という章があります。
 一部抜粋してみますので、よかったら読んでみてください。

 「祈りは神を変えません。祈りは私を変えます」。私たちが祈ると神は聞 いてくださる、まるで私たちの意のままになる神のように思いがちです  が、私がどう願おうと神はご自分の御心をお行いになるのです。私は「欲 しいもの」を願うけれど神は「要るもの」をくださるのです。
  私は26年前、うつ病になりました。50歳で脂が乗っているとき、仕 事が面白くて仕方がないときに欲しくもない病気をいただきました。その 時、一人のカトリックのお医者様が、「シスター、運命は冷たいけれど、 摂理はあたたかいですよ」と慰めてくださったのです。その当時はその言 葉の意味がわかりませんでしたが、その後運命と摂理の違いが少しずつわ かってきました。この世の中に起こることをしょうがないこと、降って湧 いたような天災、人災つまり、運命として受け取るのではなく、同じ受け 取るのなら摂理として、神のはからいとして受け取る、だから「大丈夫」 ということなのです。
  私の欲しかったことはそのときには実現しないかもしれない。でも、い つか神の時間に実現されるのだということ、そう信じて生きることがすべ てを摂理として受け止めるということなのです。旧約聖書のコヘレトの言 葉という章に、「何事にも時があり、天の下の出来事には全て定められた 時がある。神のなさることは全て時宜にかなって美しい。神のなさる業を 始めから終わりまで見極めることは、人には許されていない」と書かれて います。
  本当にそうだと思います。神の摂理として病気をいただいたというこ  と、その時はとても辛かったけれども、今となってはあの時あの病気をし てよかったと思います。病気をしたおかげで人に対して優しくなりまし  た。それまで人に対して厳しくて、あの人はだらしがない、なぜもうちょ っとがんばらないんだ、などと思っていたのがそれを思わないで済むよう になりました。自分の弱さを知ったからです。
  私が変わるために、神が摂理として病気をくださったのだと思います。 そして、そう思うことができるようになったことをありがたいと思いま  す。

2007.07.19:t−ozeki

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