二人の彫り師:獅子宿んだよね日誌

獅子宿んだよね談話室
二人の彫り師


文久3年の記名のある成田の獅子頭制作者の謎に迫る。

結論から言うと不明のままです。

記名にあった彫工には塗師の齋藤藤三郎の名前と山田伊七、菅野吉太郎とあったが

その当時の交通事情を考えてわざわざ京都まで平吹獅子を送り京都の彫り師に作らせるのも

現実的ではない。やはり地元の彫り師だろうと総代の命を受け洗い直しする事になった。

当初から文久3年の獅子頭は梅津弥兵衛の作風で勝手に梅津弥兵衛獅子と決めつけていた。

文久3年に制作したのであれば梅津弥兵衛はその時何歳か?

すると以前作っていた伊佐沢神社の拝殿に飾ってあった資料がある。

梅津弥兵衛の写真付きであ。

たぶん、弥兵衛の婿入り先の大町の梅津写真館さんからの資料だろう。

明治20年十日町竹田家よりの婿入りした記録や昭和62年に塗り替え修理した時のメモ書きが

あった。

それによると文久3年は1863年で弥兵衛は36歳である。若い!

文久元年には飯豊町黒沢坪沼の熊野神社の獅子頭を制作している。その神社には板に描かれた

菅原白龍の熊の親子図がある。白龍とも親交があったかもしれない。

その他、川西町新山神社、長井総宮神社、九野本稲荷神社、平山天満宮、寺泉五所、川原沢巨四王、

草岡津島、森の津島、森の観音、小出白山、泉の羽黒、時庭豊里、河井若宮八幡、九野本八雲等

に獅子頭を納めていると見ているが、まだまだ有るかも知れない。

さて、もう一人その当時活躍した彫り師が居る。

勧進代の長谷部吉之助だ。こちらも以前ご紹介しているのでご記憶の方もおられるだろう。

調べてみると文化13年(1816)生まれ。文久3年では47歳である。

蒲生正男氏著の「奇人彫刻家 長谷部吉之助」に詳しく描かれている。

気になる所は



文久3年の記名にあった佐々木本家で菅原白龍と長谷部吉之助が製糸場を視察に来た大久保利通を

長谷部が芸で接待したという記録が面白い。

彫刻や絵画に留まらず芸能にも秀でていた長谷部吉之助も制作したのではないかという

憶測が頭を持ち上げて来る。

今回も成田の文久3年獅子は誰が制作したか結論は出ないのである。


2016.03.29:Copyright (C) 獅子宿燻亭5
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