▼蔵王竜山(龍山)から陽が射し始めていました。
今日は、貴重な「小春日和」になるそうナ。
朝の犬っ子達との散歩途中で、蔵王竜山(龍山:Ryuzan)から、陽が射し始めてきました。
犬っ子モッチ(妹:2歳)は、落ちていた棗(ナツメ)の実にご執心である。

コロコロしてメンゴくて(可愛くて)、それでいて、なんとも見事な<赤>である。
・・・・・・・・・・・・
昨日は、なにかと気ゼワシクて、Blogアップはお休みとなった。
ところで、今話題の”画像流出事件”であるが、実は・・・・私も、
当日早朝のNHKニュースで知って直ちにYouTubeを検索してみたひとりである。
こーんなに大きな出来事なので、すでにアクセス不能になっているかと思いきや、
すんなりつながった。加えて、その時点でのアクセス数を見たら、
なんと、たったの400〜500程度と、あまりの少なさに驚いた。
・・・・・・・・何を言いたいかというと、
大きな事件である事は間違いないのだろうけど、NHKはじめマスコミの、
<大慌ての報道>があったからこそ、こんな日和見な私でも、
あの画像を自ら検索して見たし、カミさんにまで「おーい、見てみろや」となったのである。
ま、「今回の事件」という個々の問題はともかくも、
もう一言だけ簡単に付け加えるならば、
今回の一件は、すでに私達を取り囲んでしまっている現代の情報環境の中での、
「新たなパンドラの箱を開けてしまう」トリガー(引き金)が引かれてしまった・・・という事だ。
心持的には、「9.11」以来の違和感と不安感が入り混ざった様な、気分が悪くなるというか、
胸クソ悪いというか、なんとも言い現わし難い感じを受けた次第だ。
→画像[ ]
2010.11.11:shidareo

新たなとりくみ
新たな取り組みとなりうるのだろうか。
金属が世界を変え
火薬が世界を変え
航空機が世界を変え
ジェットがそれを越し
核がまた変える

暫くなりをひそめた弾丸が放たれる

心は火薬であり、言葉は弾丸である

誰かが言った言葉であるが、
平和裏に世界が一体となりうる平和の引き金がありうるなら、
私たちはそれを受け入れよう。

ネットと言う強大で、何人にもどんな権力にも抑えることが不能な世界が現れるなら、それが平和裏にある限り、民衆はそれを望むであろうし、為政がそれを拒むなら、レジスタンスが弾丸に変えて言葉を打ち込むのだろうか。

流す血に代え、失う命に代え、電脳世界が平和世界の最後の核融合であってほしい。

いま、俺たちはそんな大きな流れを体感しているのですね、きっと。
2010.11.11:クマ仙人

選択肢
無限の選択肢を与えて思考停止状態にする。

その中から例えば3つだけチョイスして「この中のどれか」って言ってあげる。

すると「その3つ」の土俵のなかで1つを選ぶ傾向にあるっすね。

自分で選んでいるのか、選ばされているのか?

自分で選んでいる!って思っている思っている人の方がトリックにはかかりやすいっすよね。

それが何人もいて、その何人かが、奇妙な同期を感じたりしたらまたひとつ「集団による幻想」が産まれちゃうかも?


ところで最近薄型テレビにしたら、ナカミまで薄くなっちゃった気がします。






2010.11.11:みっきー

その予言は。。。
Macが世に出てやや経過した1980年をちょっと回った頃でしたが、
アルビン・トフラーというアメリカの社会学者が
「第3の波(The Third Wave)」という本を出しまして、
私なんぞもかなりハマっておりました。

ま、平たく言えば、その後の情報環境の発達と
それがもたらす社会の変化(というより変容)の事で、
要は、今みたいな社会が必ず来ちゃうよっ、てなハナシなのですが、
その予言は、ほとんど現実になっている様です。

彼が引き続き出した著書「パワーシフト」には、
まさしく、クマ仙人さんがほぼ現実として垣間見ているところの、
「権力のシフト」について述べられているのですが、
今回の一件で、かなり決定的になってしまったなぁ・・・という感じです。

人って、自分が力を持っていると知ってしまうと、
仮に、それがホントーでも、勘違いであっても、
いずれ、いっぺん使いたくなるモンでもあるみたいだしィ。

それも・・・携帯電話やPC、VTR、デジカメ、Netと言った、
ほぼ誰もが、常識程度に日々何気に使っているモノにこそ、
使い方次第では、とてつもない大きな力が秘められている事に、
誰もが改めて気付かされた日となったのでは?

ま、チカラも、カネも、知恵も、工具も、農具も、使い方次第。
どう使うかは、ヒト次第。

ネット技術だって、元々は核戦争を想定した通信の確保だし、
コンピュータに至っては、元々は弾道計算装置。
デジタル画像やそのその処理技術だって同様。

だから、今回を機に、今生きてるこの情報社会って、
万人の万人に対する闘争の為の社会(疲れちまう)でもなく、
また、支配VS被支配という闘争の為の社会でもなく、
ホントは、人ひとりひとりの為の社会(の実現)に向かうんだなーって、
改めて思い返してみるのも良いと思う。

ま、そうは言ってみても、いろんな事が起きてしまうのも世の常だし。。。

今回の一件だって、賛否や善し悪しは別にしても、
やってしまった事自体は「テロの手法」そのものだし。

マスコミを筆頭にしてみーんなで騒ぎ立る結果となり、
更なる情報拡散を呼んでしまって、
日本国中が右往左往状態に陥ったという始末であった様な。

この一件から、何を学ぶも「人次第」なんで、或る意味で、
なんだか怖い面も大きいなぁ。。。
ま、でも、実験や研究に拠ると、例えば「未来」であるだとか、
イワユル対象が曖昧な場合は、楽観視した方が良いらしい。
その方が「幸せを得る機会が確率的に多くなる・・・」のだそうだ。

・・・・・・・・

前述のアルビン・トフラーは、「人が動く(人を動かす)」という事の背景には、
たった3つの要素しかないとも言ってました。

その3つの要素って、「富」と「暴力」と「知恵」だそうである。

富って、貨幣でもあり、資源でも産物や恵みでもある。
法は、暴力が昇華したものと聞く。
知恵は、学び、教え、則でもあり、信条とか宗教でもあり、意味や情報だろう。

現代社会に於いて、これら3要素の全ては、
すでに、「情報」と深く結び付いてしまっている事は明白だろう。
逆を言えば、「情報」に還元できると言える程かも知れない。

そういう意味に於いても、好むと好まざるとに関わらず、
私達は情報社会の中で生きている。(・・・んだろうなぁ;)

2010.11.11:shidareo

情報の操り人形・・・
情報を、情報ととらえて、そのすべてをそれが世界であると認識してはならない。情報は人間の感知しうる情報源のただ一つにすぎない。味覚嗅覚などの一部でしかないという事ですな。
中国で2〜300人が反日のデモをした・・・・と。
中国十何億の国民のただそれだけの事でも、テレビやラジオで言えば、大きな事なのかととらえてしまう傾向にある。
恐ろしや恐ろしや・・・・・。
前出みっきーさんの言にもあるが、選択肢というのがミソですな、市民には選択肢しかないと思わせる手法そのものが政治である。
情報も同じところにある。

PCの前から離れ、降る雨に打たれ、吹きすさぶ嵐に震え、暖かい陽を受け、種を播き、自分が知りえる自然の中での情報のみによって、今いるここを確認するという行為がなくてはならない。
情報を精査し、自分のものに出来る訓練が必要であるという事ですな。

あらゆる経験を駆使し、情報も、手段も全てを、明日の俺たちの為の糧として生きなければ、アイデンティティーなんて事を云ったって、寝ぼけた言葉になってしまうんだよね〜。
今の氾濫する情報に頼って生きれば、それは操り人形たりえると わが腐りかけの脳みそがつぶやく。



myブログに記事投稿しようとして長文書いたんだけれど、pcに蹴られたんだか、突然消滅してしまって・・・・
関連記事だったんで、お邪魔させていただきました。
2010.11.12:くま仙人

自分のものに。
>情報を精査し、自分のものに出来る訓練が必要である。

その通りだと思います。

くま仙人さんの言う様に、山に入って、風雨や陽の温さ、
光や音などを、体いっぱいで感じる世界を持つとか、
灰色の壁を前にして何時間も静かに座禅するとか、
人に拠って、静・動の違いはあると思うのですが、
いろいろを捨象してみる時間を持つ・・・とか。

また、みっきーさんの言う様に、選択枝無限大イメージや
集団幻想などという概念を頭の片隅に持ちつつ、
対象をちょっと捉えなおしてみる・・・・とか。

ちょっと芸術系的なアプローチになってしまうのですが、
「デッサン」という言葉があります。

一般に「デッサン」というのは、非常に手業(テワザ)的で、
紙などに描かれているモノやその行為を思い浮かべて、
「あ、俺・・・苦手・下手くそ」とか「あいつは上手い」とかという
ハナシになりがちなのですが、
広義的には<本質を捉える>という事なのだそうです。

だから、「紙とかに特段描かない”デッサン”」というのも
大アリだろうと思っています。
2010.11.12:shidareo

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