これぞ天下の上杉節 3番:山形の歴史・伝統

山形の歴史・伝統
これぞ天下の上杉節 3番


これぞ天下の上杉節 3番


信玄死すとの報を聞き
涙にくれて声もなく
雪どけ待って上洛の
雄図はむなしく春に散る



「信玄死すとの報を聞き 涙にくれて声もなく」


元亀4年(1573)4月12日、宿敵の武田信玄がこの世を去ります。

武田信玄は、三方ヶ原の戦いにおいて、徳川家康の軍勢に大勝しました。

さらに攻め続けようとした矢先、信玄は体調を崩し、進軍は止まってしまいます。

喀血するなど病状が回復しないため、信玄は甲斐への撤退を決断をしました。

撤退の途中、武田信玄は三河街道にて亡くなりました。

53歳でした。


長く敵として戦ったとはいえ、謙信にとってライバルを失うことは少なからずショックだったと思います。

その様を表した歌詞です。



「雪どけ待って上洛の 雄図はむなしく春に散る」

信玄の死から4年後、上杉軍は越中に侵攻します。

七尾城を落とし、七尾城の援軍にかけつけた柴田勝家率いる織田信長軍までも手取川の合戦で打ち破ります。

越中を平定した謙信は、いったん春日山城に帰還し、再度軍備を整えます。

次は、加賀を攻め、織田信長を倒し、京へ上洛するという大規模な計画が待っていました。

義理がたい謙信は、織田信長のように自らが天下を取ることより、備後国に逃れた将軍足利義昭(写真の人物)を奉じて幕府を再興することを最大の目標としました。

武器や糧食、兵の準備をしている矢先、上杉謙信は春日山城で急死します。

天正6年(1578)3月13日、享年49歳でした。


雪がとけたら、京へ向け、兵馬を率いて向かうはずが、不運にも自らの命が尽きてしまいました。

「雄図」は、信長を打倒し、足利幕府の再興を手助けしたいという謙信の夢に他なりません。

謙信の思いとはうらはらに、時代は足利幕府の滅亡と天下統一へ向け動き出していきます。


川中島で戦った2人がこの世を去り、群雄割拠の時代から天下統一の時代へと流れていきます。

上杉家では、謙信亡き後の家督相続を巡って、2人の養子・喜平次景勝と三郎景虎による内乱が起こります。

御館の乱と呼ばれる内乱を制した喜平次景勝は、上杉家を相続します。

のちの直江兼続である樋口与六の名が古文書に登場するのは、この御館の乱のあとになってからです。

上杉家でも景勝というニューリーダーを中心とした新たな時代が訪れました。
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