もう春の兆しの、冬景色。:山形の歴史・伝統
山形の歴史・伝統 |
もう春の兆しの、冬景色。
2010.01.30:Copyright (C) やまがたでの日々の暮らし・自然・風景
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以前(2009.12.14)に、体内時計ならぬ体内季節感とか、近代俳句の季語と当地で実感する季節感のズレ・・・云々という事を書いた。
近代俳句の季語と実際の季節感がドンピシャに合うのは、四国の松山だと聞く。それは、彼の正岡子規の活動拠点だった事に加えて、後の近代的な教育システムにより、全国一律に波及した事に拠るところが大きいと聞いた。
その全国一律というのが、いろんなズレにつながる。
四国の松山ならばともかくも、当地やまがたでは、まだまだ冬の最中の新暦1月30日に「桜」だとか「菜の花」とか言われても、単に言葉として理解も出来るし、頭ン中のイメージとしてもとりあえずは浮かぶ・・・が、実は春はまだ遠すぎて「からだいっぱいの喜び」的には、どうしても感じられない。「からだいっぱいの喜び」的に感じて、そして「溢れ出す様に表出したもの」でなければ、やはりホンモノではない気がする。
いっいや、仮に、句や和歌、タイトルコピーなどを「言語系脳みそデータベースを捏ね繰って何か出せ!」と言われれば、それなりに出せなくは無いのかも知れんが、それは、何か…単純にテクニックに依存した作為性バレバレのものになりがちだし(オシゴト界ならば致し方無いのかも・・・)。
ところで、現在においての季語とか季節感の中心地は、やはり首都圏だと思う。
そこでは、季節感をキーにした膨大な量のコマーシャルテキストやイメージが生み出され、そしてマスコミのみならず、ネットや店舗、一般雑誌やフリーマガジンと言った各メディアで配信され、消費され続けているからで、この現実も、現代の大きな文化活動であり潮流だと言える。しかも、その表出タイミングは、新暦よりも更に1ヶ月以上も前倒しである。そして、その仕込みや準備時期は、もっともっと前倒しとなる。(あ、そうか。だから忙しいんだぁ!)
大都市は、自然の脅威というか不確実性を排除する事によって成立しているが、同時に、季節感も排除する方向に向かうものである。しかしながら、そこに住むヒトは自然の一部なので、自ずと自然を欲してしまう。そこで、街路樹や緑地公園を整備したり、ペットを飼ったり、ベランダで野菜を育てたり、観葉植物を配置したりして、作為的に自然を取り込む・・・事で、バランスを保っているからだろう。そして、作為的であるからこそ、非常にデザイン的匂いがある。
仮に、都市が、自然というものをデザインしつつ取り込む事を一切止めてしまったら、どんな世界になるだろうか???きっと、例えば、泳ぎ続けないと死んでしまうマグロやサメの様に、「デザインして、消費し続ける」必要があるんだろうな。。。
翻って当地では、首都圏よりもほぼ1ヶ月+α遅く春を迎え、そして、一ヶ月+α早く秋を迎える。それに加え、けっこうバードな夏と、ディープな冬がある。しかも、自然を作為的に取り込むというよりも、自然の方が容赦なく入り込んでくる。測定や統計をとった訳ではないが、緑を植える事に費やす仕事量よりも、緑を排除する(下刈りや草取り)仕事量の方が、物理的に大きいと思う。
ま、そんなこんなで、体内季節感のズレや差異が、正岡子規以降未だに、或る時は喜劇的に・或る時は悲劇的に、いろいろと作用する様である。
こんな歌を思い出した。
「耳澄まし 心さやいで待つ春に ももはな咲かむ 夷(イ)ナの國にも」(詠み人知らず)