最上家臣余録 〜知られざる最上家臣たちの姿〜 序文:山形の歴史・伝統
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最上家臣余録 〜知られざる最上家臣たちの姿〜 序文
最上家臣余録 〜知られざる最上家臣たちの姿〜
【はじめに】
十六世紀初期から十七世紀前半期にかけて情勢が激変する中で、地方大名が直面した問題や克服しなければならない状況がどのように変化したかを考えてゆく場合、その家臣が主家に及ぼした影響を追う考察の切り口は、一定の成果を期待できる方法論であると筆者は考えています。
また近年、いわゆる「戦国ブーム」の中で、大名のみならず有名家臣の持つキャラクター性やエピソード等が注目されている事は見逃せない事実です。実例を挙げるならば、伊達家家臣の片倉景綱や上杉家家臣の前田利益は、ゲームやマンガ等様々なメディアに取り上げられて戦国ブームの牽引役となりましたし、上杉家家臣の直江兼続や武田家家臣の山本勘助は大河ドラマにもなって人気を博しました。戦国大名の有力家臣は、研究の題材としてのみではなく、観光資源として、あるいは生涯学習・歴史普及の一コンテンツとしても非常に優秀であるという位置づけができるのではないでしょうか。
さて、最上家臣に関わる研究の現状に目を向けた時、大きな壁となって立ちはだかるのが「史料の残存状況」です。最上家は元和8年(1622)年に御家騒動を契機として57万石から1万石(後に5000石に減知)へと所領を削減された上で国替えされましたが、その際山形城に保管されていた書状・記録類の大部分は処分されてしまったと見え、現存していません。また、その際に家臣団も解散してしまったため、他家に仕えたりなどしてその後も存続した家臣に関わる史料はわずかながら残存しているものの、断絶した家の史料はほぼ散逸してしまいました。ゆえに、家臣個人を検討する場合においては、数少ない書状史料と二次・三次史料(軍記物史料など)を手がかりとして使うほかない現状にあります。
端的に言うならば、「根本史料が決定的に不足している」のです。
また、かかる状況が副次的に生み出した現象として、軍記物史料からのアプローチが、その人物の持つキャラクターイメージの大半を形作っている事は否めません(もちろんこれは最上家に限ったことではありませんが…)。最上家の有名家臣と言えば、「氏家守棟」「志村光安」「鮭延秀綱」などが挙げられましょうが、彼らとてそれは例外ではありません。例えば、志村光安は、
ソノ心剛ニシテ武威ノ名顕ワレ、然モ口才人ヲクジキ、イカナル強敵
トイヘドモ彼ニ逢ヒテハスナハチ降リヌ…(『奥羽永慶軍記』)
と評価されています。また、慶長出羽合戦時に、長谷堂城の守将として数倍の上杉軍を相手取って半月間守り通した功績も近年かなり広く知られる事となったため、永慶軍記に記されているような「戦上手」「弁舌豊か」であるとの評価が共通認識として固まりつつあるように思われます。
また、鮭延秀綱は、最上義光が勢力を北進させる過程で最上氏勢力下に加わった国人領主ですが、やはり長谷堂城の合戦での活躍や、最上家が改易されるきっかけとなった内紛において山野辺義忠を支持して家中に混乱を招いた人物である事がクローズアップされがちな現状にあります。
筆者は、それが全ての面において悪い事だとは思いません。
しかしながら、その人物が持っていたであろうキャラクター性が、「一般的評価」の裏に埋もれてしまっている事もまた否定できない事実なのです。
そこで、本稿では、数少ないながらも残された書状史料を中心とし、軍記物史料や家譜等諸記録を補助的に用いながら、最上家有力家臣を再評価してみたく考えています。本稿が、僅かながらでも最上家研究の進展に寄与すれば幸いです。
■■執筆:内野 広一
2010.02.23:Copyright (C)
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【はじめに】
十六世紀初期から十七世紀前半期にかけて情勢が激変する中で、地方大名が直面した問題や克服しなければならない状況がどのように変化したかを考えてゆく場合、その家臣が主家に及ぼした影響を追う考察の切り口は、一定の成果を期待できる方法論であると筆者は考えています。
また近年、いわゆる「戦国ブーム」の中で、大名のみならず有名家臣の持つキャラクター性やエピソード等が注目されている事は見逃せない事実です。実例を挙げるならば、伊達家家臣の片倉景綱や上杉家家臣の前田利益は、ゲームやマンガ等様々なメディアに取り上げられて戦国ブームの牽引役となりましたし、上杉家家臣の直江兼続や武田家家臣の山本勘助は大河ドラマにもなって人気を博しました。戦国大名の有力家臣は、研究の題材としてのみではなく、観光資源として、あるいは生涯学習・歴史普及の一コンテンツとしても非常に優秀であるという位置づけができるのではないでしょうか。
さて、最上家臣に関わる研究の現状に目を向けた時、大きな壁となって立ちはだかるのが「史料の残存状況」です。最上家は元和8年(1622)年に御家騒動を契機として57万石から1万石(後に5000石に減知)へと所領を削減された上で国替えされましたが、その際山形城に保管されていた書状・記録類の大部分は処分されてしまったと見え、現存していません。また、その際に家臣団も解散してしまったため、他家に仕えたりなどしてその後も存続した家臣に関わる史料はわずかながら残存しているものの、断絶した家の史料はほぼ散逸してしまいました。ゆえに、家臣個人を検討する場合においては、数少ない書状史料と二次・三次史料(軍記物史料など)を手がかりとして使うほかない現状にあります。
端的に言うならば、「根本史料が決定的に不足している」のです。
また、かかる状況が副次的に生み出した現象として、軍記物史料からのアプローチが、その人物の持つキャラクターイメージの大半を形作っている事は否めません(もちろんこれは最上家に限ったことではありませんが…)。最上家の有名家臣と言えば、「氏家守棟」「志村光安」「鮭延秀綱」などが挙げられましょうが、彼らとてそれは例外ではありません。例えば、志村光安は、
ソノ心剛ニシテ武威ノ名顕ワレ、然モ口才人ヲクジキ、イカナル強敵
トイヘドモ彼ニ逢ヒテハスナハチ降リヌ…(『奥羽永慶軍記』)
と評価されています。また、慶長出羽合戦時に、長谷堂城の守将として数倍の上杉軍を相手取って半月間守り通した功績も近年かなり広く知られる事となったため、永慶軍記に記されているような「戦上手」「弁舌豊か」であるとの評価が共通認識として固まりつつあるように思われます。
また、鮭延秀綱は、最上義光が勢力を北進させる過程で最上氏勢力下に加わった国人領主ですが、やはり長谷堂城の合戦での活躍や、最上家が改易されるきっかけとなった内紛において山野辺義忠を支持して家中に混乱を招いた人物である事がクローズアップされがちな現状にあります。
筆者は、それが全ての面において悪い事だとは思いません。
しかしながら、その人物が持っていたであろうキャラクター性が、「一般的評価」の裏に埋もれてしまっている事もまた否定できない事実なのです。
そこで、本稿では、数少ないながらも残された書状史料を中心とし、軍記物史料や家譜等諸記録を補助的に用いながら、最上家有力家臣を再評価してみたく考えています。本稿が、僅かながらでも最上家研究の進展に寄与すれば幸いです。
■■執筆:内野 広一