最上家臣余録 【鮭延秀綱 (7)】:山形の歴史・伝統

山形の歴史・伝統
最上家臣余録 【鮭延秀綱 (7)】
最上家臣余録 〜知られざる最上家臣たちの姿〜 


【鮭延秀綱 (7)】


 4−2 軍記物史料における鮭延の官途名

 次に、軍記物史料に登場する鮭延の官途名を見てゆく。記事の信憑性という点では多少問題がある史料群である事から、その史料批判は必要であるが、いくつか重要な点を含む史料分野と考えられるため、検討材料として取り上げた。以下では、いくつか軍記物史料を挙げ、各史料において鮭延に対し最後に「典膳」という官途名が使用された部分と、最初に「越前守」が使用された部分を列挙していく。紙幅の都合上、ここでは『最上記』『会津四家合考』『奥羽永慶軍記』の三史料を挙げる(注50)。

  ○『最上記』(注51)
  「兼山城開退之事」 
   (前略)国の末に鮭延と申所の領主佐々木典膳
   兼山に在城して(後略)

  「庄内退治之事」  
   (前略)差向けらるゝ人々には、本城豊前・鮭延越前守(後略)

 記事内容から「佐々木典膳」は鮭延秀綱と同一人物と見て間違いない。「典膳」という官途名が最後に登場するのは天正九年に鮭延が最上家に臣従する記事である。その後、鮭延秀綱の登場は無く、間をおいて慶長六年、関ヶ原の翌年に最上勢が庄内を総攻撃するというくだりで「越前守」がはじめて見える。


  ○『会津四家合考』(注52)
  「景勝、陰謀を義光に進めらるゝ事、附義光由来の事」
   (前略)去程に、義光打続きて剛敵を亡し、近隣を押領して国中大方
    靡き従ひけるに、佐々木典膳とて、其頃十六歳になる若者の、
    金山城に居たりけるを、降参せよと、毎度催促せられけれども、(後略)

  「景勝、陰謀を義光に進めらるゝ事、附義光由来の事」
   (前略)景勝、先づ最上義光の元へ使を立て、爾々の陰謀に、
    御同心あるべうもや候、さあらば某、関東へ発向仕る時、
    先陣を頼み可申候と、密に申されける、去程に義光、
    嫡子義康並に郎従鮭延越前守・楯岡甲斐守(後略)

 『会津四家合考』でも、天正九年鮭延臣従の記事が「典膳」が現れる最後の記事である。「越前守」の官途名の初見は、慶長五年の記事である。


  ○『奥羽永慶軍記』(注53)
  「最上義光・伊達政宗閉門事」
  (前略)カゝル処ニ御目付ノ者言上シケルハ、政宗・義光不審ヲ蒙候ニ付テ、
   両家ノ郎党延沢能登守・鮭延典膳・遠藤文七郎(後略)

  「長谷堂合戦、付鮭登働事」
  (前略)扨モ鮭登越前守ハ長谷堂加勢トシテ此城ニ有シカ、(後略)

 『奥羽永慶軍記』では、文禄四年に最上家と伊達家が反乱を企てているという流言が流れ、両家が閉門の処置をとられた事件の記事において最後に「典膳」の名乗りが見える。「越前守」の初見は、長谷堂合戦時である。



 4−3  整理と考察・仮説


 以上鮭延秀綱の官途名が記載されている書状・軍記物史料を挙げた。結果として導かれる傾向は以下の通りである。

・書状史料では、鮭延秀綱の立場(発給者・受給者・第三者)によって
 使い分けがされているわけではない。
・書状・軍記物史料ともに「典膳」「越前守」を時期的に区別して使用している。
・軍記物史料において、「越前守」の官途名が初出する時期は
 慶長五〜六年に集中している。

 では、かかる時期的な官途名の使い分けはいかにして起こったのであろうか。慶長五・六年前後と思われる画期の背景について考察してみたいと思う。

仮説を述べるにあたって、2つの史料を挙げる。

  ○『鮭延越前守系図』(注54)
  (前略)二十三代貞綱  (一本ニ貞茂)源太郎典膳正 
  天文年中十七才ニシテ鮭延荘ヲ賜ハリ(後略)

  ○『奥羽永慶軍記』(注55)
  「鮭登左衛門尉頓死事」
   最上ノ郎等鮭登ノ城主佐々木越前守ハ、度々ノ軍功諸軍ノ上ニ立、
   抽賞ハ諸人ノ望ヲフサキケリ、殊ニ一子左衛門尉ハ
   上杉戦ノ時イマタ十五歳ノ初陣ニ、諸人ノ耳目ヲ驚ス、異国ハ知ラス、
   本朝近代ノ弓矢ノ少年ニシテ、(後略)

 『鮭延越前守系図』は明治後期に正源寺の住職鮭延瑞鳳氏が諸史料を収集して著したものである。同氏の著した郷土史資料の年代考証には大きな矛盾があると粟野氏が指摘しているように(注56)、瑞鳳氏史資料の年代観は充分に信用出来るものではない。ただ、秀綱の父親貞綱の名乗っていた官途名が記載されている数少ない史資料であるというのも事実である。官途名に関して、著述当時は根拠とできるような史料が現存していたのであろうか。

 ともあれ、前述したように、鮭延氏の最上地域進出時期ははっきりとしていないが、元々の主家であった小野寺氏が大永・天文頃に最上地域へ進出しているから、鮭延氏も貞綱の代には最上地域の押さえとして進出していたと考えられる。

 次に挙げた『奥羽永慶軍記』の記述では、鮭延秀綱の嫡子「左衛門尉」が上杉との出羽合戦において初陣を飾ったとの記載がある。幼名による記載でない事から、年齢を考えれば左衛門尉は慶長五年の直前あたりに元服していた可能性が高い。そこにおいて、秀綱は自分が名乗っていた「典膳」という官途名を元服した左衛門尉に継がせた、もしくは将来的に継がせることを見越して自らの名乗りを変えた可能性をここで提示しておきたい。
 言い換えるならば、「慶長五年直前に嫡子左衛門尉が元服するに伴い、典膳の名前を譲った、ないし嫡子と認めて将来的に左衛門尉が家督を継ぐ際に典膳の名前をも継がせる下準備として自らの名乗りを変えた」ということになろうか。

 左衛門尉が典膳と名乗った史料は現在発見されてはいない。だが、秀綱が自らを「最上家の中核」であると同時に、父貞綱から「受け継いだ所領の守護者」として認識していたとすれば、最上地域に勢を張った貞綱の名乗りを継ぎ、またその嫡子へも継がせようとした可能性は十分にある。しかし、左衛門尉は家督を継承することなく慶長十七年に死亡しており、主だった書状・記録が存在しない。ゆえに、この仮説を実証する史料がないことは残念と言うほかない。

 また、秀綱は元々「源四郎」と名乗っており、秀綱が「典膳」を名乗り始めた時期も定かではない。貞綱より家督を相続し、真室城の主となった際に「典膳」と官途名を変更した可能性も同時に指摘しておきたい。
<続>

(注50) その他、『羽陽軍記』『最上斯波家伝』『鮭延越前守公功績録』
   『最上合戦記』等も検討材料とした。
(注51) 『山形市史 史料編1 最上氏関係史料』(山形市 1973)
(注52) 『同上』
(注53) 『同上』
(注54) 『新庄市史 史料編上』(新庄市 2001)
(注55) 『山形市史 史料編1 最上氏関係史料』(山形市 1973)
(注56) 「出羽国鮭延郷について ―鮭延氏関係史料の再検討― 下」
   (『山形県地域史研究』9号 山形県地域史研究協議会 1983)


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2010.04.15:Copyright (C) 最上義光歴史館
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