最上を退去した佐竹内記と一族の仕官先 【一 最上氏に仕えていた頃の佐竹内記】:山形の歴史・伝統

山形の歴史・伝統
最上を退去した佐竹内記と一族の仕官先 【一 最上氏に仕えていた頃の佐竹内記】
最上を退去した佐竹内記と一族の仕官先

【一 最上氏に仕えていた頃の佐竹内記】

 元和八年(1622)最上氏没落による藩の解体は、それはあの大家臣団の消滅を意味するものである。だが武士の道を捨て難く、新たな主家を求めようと、全国に散っていった者達の数も、決して少なくは無かったのである。
 この羽州最上時代の三種の分限帳から、佐竹姓を拾ってみよう。
 
A[最上義光分限帳]
土佐(物頭・655、7石) 太夫(400石) 平内(200石) 政右衛門(物頭・520石) 兵内(200石) 源七(100石) 忠次郎(100石) 内蔵允(100石) 喜八郎(100石) 半左衛門(30石) 雅楽助(20石) 宮内(30石) 弥五郎(10石)
  
B[最上家中分限帳]
土佐(物頭・650石) 太夫(400石) 平内(200石) 政右衛門(物頭・520石) 兵内(200石) 源七(100石) 宮内(30石) 右次郎(100石) 喜八郎(100石) 半左衛門(40石) 雅楽助(20石)
 
C[最上源五郎御時代御家中并寺社方在町分限帳]
内記(220石) 大八(160石) 源六(43石) 平内(74石) 宮内(15石) 忠二郎(42石) 喜八郎(47石) 雅楽丞(10石) 長十郎(5石3人) 五左衛門(30石) 半右衛門(16石) 藤右衛門(5石3人)

 以上、最上氏直参の分限帳から佐竹氏を拾ってみたが、これに陪臣として仕える者達を加えたならば、更に多くの佐竹を名乗る者達が居たであろう。この分限帳の佐竹氏の内から、内記と関わりを持つ者が果たして居るのか、その接点を求めるのは困難である。ただ平内とある人物が、後の小泉平内なのだろうか。
 ここで、物頭級の土佐・政右衛門・内記の三人を見ると、A・Bには共に土佐・政右衛門が有るが内記は見えず、Cは内記のみで他の二人は無い。土佐・政右衛門の二人は、Cの最上義俊の代には、もう姿を消していたのだろうか。当時の山形城下を措いた[最上家在城諸家中町割図]には、内記・土佐と別々に屋敷があるが、政右衛門は見当たらない。また城北の郊外の一画に、「佐竹内記下屋敷」と広大な区画が有るが、内記の禄高から考えてみると、少しは奇異な感じを覚えるのだが。
 内記の最上時代の足跡を探し出すのは難しい。元和八年(1622)藩内騒動による藩の解体は、辛うじて近江・駿河の地に一万石を与えられ、何とか大名として息を継げた最上源五郎義俊(家信)であった。   
しかし、この落差の激しい身辺の変化に耐えかねてか、寛永八年(1631)「長々相煩」の中で生涯を閉じることになる。
 この失意の義俊に付随の家臣の内に、内記の姿があった。『最上家譜』や『最上家伝覚書』によると、幕閣に於いて、義俊亡き後の家名存続についての協議が為され際の、最上氏側の代表として、柴橋図書・鈴木弥左衛門と共に内記の姿がある。江戸の大手門前の広大な屋敷を明け渡し、向柳原の下屋敷に移った最上氏であった。江戸を一歩も出ない義俊を支え、藩の運営に携わっていた内記であったろう。
 しかし、義俊の死により五千石の旗本身分となる最上氏が、禄高の半減に伴う家臣団の整理などに伴い、内記も柴橋図書と共に、最上氏を去ることになる。その経緯について『柴橋家由緒書』は次のように云っている。

源五郎廿六歳ニ而逝去、嫡子最上刑部弐歳之時、壱万石(五千石)被下ル、然所柴橋図書佐竹両人申分重而又有之、刑部御母双方浪人被申付、此時浪人ニ罷成目斎卜改、法名花林春松居士佐竹末孫奥平氏山形之城主美作守方有之、

 このように、知行半減の旗本身分の家中に於いては、先ずは家臣団の整理が急務であったろう。柴橋図書と共に最上氏を去った時期は、同じく柴橋氏の記録の[寛永拾一年諸御道具御改脹面人数]の十一名連署の内に、柴橋図書と共に内記の名もあるから、寛永の十二年以後のことであろう。また、この柴橋氏の記録から、内記の子の与二右衛門が、山形藩当時の奥平氏に仕えていたことも分かってくる。
■執筆:小野末三

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2010.08.28:Copyright (C) 最上義光歴史館
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