「旧鶴岡城本丸御殿障壁画『竹林図』について」 宮島新一:山形の歴史・伝統
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「旧鶴岡城本丸御殿障壁画『竹林図』について」 宮島新一
旧鶴岡城本丸御殿障壁画「竹林図」について
旧鶴岡城本丸御殿の障壁画とされる九幅はいずれも鶴岡市の文化財に指定されており、昭和五十一年に刊行された『目で見る鶴岡百年 付酒田』上巻に全ての図が掲載されている。これらに加えて新たに、克念社(風間家丙申堂)の金地著色「竹林図」一面が同じく鶴岡城本丸御殿の障壁画として紹介され、平成九年十月二十六日に初めて公開された。
「竹林図」克念社
「竹林図」は一見して、桃山時代の作品とわかる特色を備えているにもかかわらず、他の図と同じく鶴岡藩の御抱え絵師三村常和筆として紹介された。寸法も縦2.7メートル、横5.4メートルと巨大で、全国的にも遺例の少ない貴重な作品である。また、普通には「竹虎図」や「竹鶴図」として描かれるにもかかわらず、竹林だけで構成されている点も他に例を見ない。
報道に際して三村常和筆とされたのは次のような文献の存在による。旧庄内藩士、黒谷時敏が明治十一年に著わした『くだくだ草』(史料叢書第7編・昭和三年)に、玄間に接続する建物に「竹の間とて殿の御在国の折は御徒一人づつ出番する所」、「此西の間を桜の間と云いて御広間なり」、「其の西の間を桐の間と云い又金鶏の間とも云う」「其の西の間を松の間と云う御番頭の詰所なり、茲には北へ折曲がりて上段の間もありけり」と部屋の名前を列挙して、「竹の間より此所まで皆金張付けに、常和と云う画工が其物を間毎に書きたるによりてかくは名づけられたる也」と記されている。
これらの間取りや部屋の名前が正しいことは鶴岡市郷土資料館の「出羽国庄内鶴岡城住居絵図」によって確認できる。黒谷時敏は金地の図はすべて三村常和筆としているが、幕末期には確かにそう伝えられていたのだろう。三村常和(1678没)は名前からすると狩野常信(1636〜1713)から一字を戴いたようである。常信は慶安三年(1650)に父、尚信が没した後、わずか十五歳で家督を継いでいる。その翌年に常和は酒井家に抱えられ、承応二年(1653)に酒井忠当に従って庄内に下っている。
画風からすると、本丸御殿障壁画とされているうちで、常和が描いたと見なされるのは致道博物館と木村家に分蔵されている「群鶴図」だけである。田圃に下りたった鶴といういかにも江戸狩野らしい主題と画風であり、致道博物館に襖三面分が一幅、木村家には四面分二幅が残されている。『くだくだ草』に白木書院に関して「西の壁際には鶴の群居たるを書きし金屏風立て置かる」とあるのはこの図のことらしく、諸士のお目見えにあたって外されていた襖絵を屏風と見まちがえたのかもしれない。
「群鶴図」致道博物館
明治期の証言だけでは心許ないので、もう少し古い記録を探ってみよう。『雞肋編』巻十九に、「承応元年より御普請所覚書」という本丸御殿の建築記録がある。そこには「承応二年御城御本丸御居間、御同所御寝間、黒木白木書院、御奥御室三つ表台所、御金蔵、御城御長局、御鷹部屋夜居座敷建」、「明暦元年御城御広間建」、「明暦二年御本丸御小座敷建」などと見える。これらの建築にあわせて三村常和が抱えられ、鶴岡に下向したことがわかる。
画題からすると風間家の「竹林図」は「御広間」の玄関に接続する「竹の間」の大床に張り付けられていた図だったと考えられる。図の横幅はほぼ三間分に相当し、図面の間数と一致する。問題は明暦元年(1655)に建てられたという「御広間」が新築だったのかということである。普通、古い障壁画を新たな建物に再利用した場合には画面が切り取られたり接続に乱れが生ずるものだが、「竹林図」にはそういった形跡はまったく見られない。建物との一体性が極めて強いのである。白木書院など城主の居住空間にあたる多数の建築物が建てられた二年後に「御広間」一棟だけが別に建てられていることを考えると、まったくの新築ではなかった可能性が考えられる。もし、そうだとするといつの建物なのだろうか。
鶴岡藩士の志田則富が著わした、宝暦八年(1758)の序をもつ『鶴ヶ岡昔雑談』(庄内文庫・大正二年刊)には「(御入部の節)御本丸ばかりにて粗末なる萱葺、微々なる御殿ありて一向御手狭なる事なりし、(略)御花畑と申所へ急に仮御殿と号して御普請、(略)御本丸御殿御造営仰せ付けられし」とある。同書に引用される「御鷹匠山田氏雑談」によれば「高畑の御仮御殿には成覚院様御入国以来四五年も御座遊ばされ御本丸御造立卒りて御移徒」とあるので、寛永三、四年(1617・18)には本丸御殿の増築が終わっていたようだ。普通に考えれば、この時の建物ということになるが、「竹林図」にしても、もとは桐間の襖絵の一部だったと考えられる致道博物館の「桐図」や「躑躅図」にしても、画風からすると寛永期以前の作であり、この時に描かれたとは考えられない。
「桐図」致道博物館
「躑躅図」致道博物館
実は、入国当時には貧弱な建物しかなかったとする志田則富の記事には誇張がある。元和八年(1622)に酒井家が最上家より酒田の亀ヶ崎城を受け取った時には豊富な障壁画があったことが記録に残されている。『大泉紀年』の元和八年九月十日の条に所載される「亀崎本丸土蔵帳」によって、書院の「桃之間・墨絵之間・金之間・鷹之間・すすきの間・はきの間」の腰障子および、上広間の「絵かき障子拾貳枚」を引き継いだことがわかる。
さらに、岡田悟・飯淵康一・永井康雄氏による「藩政期における酒田の亀ヶ崎城とその本丸について」(日本建築学会計画系論文集605号・2006年7月)によれば、この時の亀ヶ崎城本丸御殿は七室からなる書院、七十八帖からなる広間、四十帖の上広間、さらに奥を中心に浴室や台所などからなっていたことが明らかにされている。亀ヶ崎城は慶長六年に最上家家臣の志村光安が城主となり、同十四年に同人が没したあと光惟が継いだものの、十九年に鶴岡にて一栗兵部に暗殺されたため、以後は最上家の直轄地となったものである。
一方、鶴岡城は当初から最上家の直轄地であり、連歌師乗阿による慶長八年(1603)の『最上下向道記』には「(六月)羽州庄内今あらため鶴岡といふにいたれは御城の普請の奉行衆とて」とあって、最上義光の命によって普請が進められていた。義光は晩年には庄内地域の開発経営に力を注いでおり、慶長九年(1604)閏八月二日の北館大学宛最上義光書状には「鶴岡へもおりおりまかりいて」とある。この時までには御殿は完成していたようで、城代として新関因幡守久正が置かれていた。鶴岡城の引き渡しの際には兵具類の記録しかないが、数は亀ヶ崎城を上回っている。慶長十七年五月九日付北館大学宛書状には「つるおか諸道具風すかし候はんために此もの共相下し候」とある。御殿についても亀ヶ崎城の規模を下回ることはなかったであろう。
「竹林図」を最上義光が慶長九年に建てた鶴岡城御殿の障壁画としても年代に問題はない。慶長十五年に完成した仙台城本丸御殿障壁画の一部である二曲一隻の「竹図」(仙台市博物館)と比較するとより柔軟な趣があり、いっそう古風である。また同じく慶長十五年頃に創建された熊本城本丸御殿が近年再建されたが、その根拠となった「御城内御絵図」(1769)の大広間の間取りと画題は鶴岡城の「御広間」とよく似ている。式台の間につづいて「鶴の間」があるところが違うが、奥へ「梅の間、桜の間、桐の間、若松の間」と並んでいるのは、梅が竹に入れ替っているだけでまったく同じである。
ただし、厄介な問題がもう一つある。「竹林図」には二重に金雲が描かれているのに対して、「桐図」や「躑躅図」は総金地で雲が描かれていない。この二つは別の絵師の手になるもので、制作年代についても若干の差を考えなくてはならない。両者の来歴については異なるルートを考える必要がある。
そこで再び『鶴ヶ岡昔雑談』にもどると、「小寺信正聞書の内に云う」として「京極家の御家取壊の時御書院の張出御取寄せ成らせ候て荘内へ御差下仰せ付けられ、今の御城金張付絵の間は皆彼京極家の張付を御取寄御張らせ遊され候由」という記事が見出される。小寺信正によれば、金張付け絵は宮津京極家の絶家に際して江戸屋敷を拝領した時に庄内に取寄せたというのである。しかしながら、『徳川実紀』の寛文六年(1666)五月七日には「京極丹後守が自邸は松平遠江守忠倶に、麻布別墅は松平対馬守忠豊にあづけらる」とあってその信憑性が疑われる。だが、『雞肋編』巻百四十二には「小嶋氏筆記」として「寛文七年末六月十五日(養正公御代也)大手先御屋敷差上られ、大名小路京極丹後守様上り屋敷御拝領、但是ハ御装束屋敷」とあって、この時拝領したのは自邸ではなく登城にあたって装束を改めた装束屋敷だったことがわかる。京極家の屋敷を拝領したのは事実となったが、寛永十八年(1641)および、明暦三年(1657)という二度の大火を経た後の大名の江戸屋敷に、桃山時代の障壁画が残されていたとはとても考えにくい。寛永大火では九十七町が焼け、百二十三の大名屋敷が焼失したため大名火消しが設置されるきっかけとなった。明暦の大火はいわゆる「振袖火事」のことで、過去最大規模の火災だったことで知られている。
京極家の江戸屋敷から引き取ったことが怪しいとなると、同じ頃の寛文元年(1661)に亀ヶ崎城の本丸に新たに広間を建造しているので、その際に旧御殿の障壁画が鶴岡城に運ばれたということも考えたくなる。だが、小寺信正は享保年中(18世紀初め)に『荘内物語』を著わした人物であり、京極家の屋敷を拝領した年代に近く信憑性は決して低くない。少なくとも他家の取り潰しにあたって金碧画を入手した、という内容に関してはまだ検討の余地がある。
『大泉紀年』に、寛永十年末に断絶した島根・松江藩主、堀尾山城守忠晴の御屋敷を拝領したことが寛永十一年(1634)にみえる。六月二十六日付け村井兵左衛門あて書状に「堀尾山城守殿御屋敷御拝領御移被遊候由目出度」とある。堀尾家の屋敷拝領は慶長六年(1601)の大火以後、寛永十八年の大火以前のことで、「桐図」や「躑躅図」の年代とも矛盾はない。ちなみに断絶した堀尾家のあとに松江藩主となったのは小浜藩の京極忠高であった。忠高と絶家となった宮津藩の京極忠国の父、高広は従兄弟の関係にあたる。その忠高も寛永十四年(1637)に末期養子として甥、高和を立てたが認められず丸亀
に改易となっている。どうやら小寺信正は京極高国の断絶と京極忠高の改易とを混同した節がある。
「竹林図」と「桐図」および「躑躅図」との画風の違いを説明しようとすると、「竹林図」については最上義光時代のものとし、「桐図」と「躑躅図」は断絶した堀尾家の江戸屋敷から引き取ったというように、別ルートによる伝来を想定しなくてはうまく説明できない。「竹林図」は今のところ最上時代の障壁画の可能性がある唯一の遺品と思われる。
時代が大きく変化するときには文化財や美術品が失われる。明治になって破壊された文化財は廃仏毀釈と廃城令によるものがとりわけ甚大である。明治六年の「廃城令」によって全国で百四十四の廃城(鶴岡・新庄・上山・米沢を含む)が決まり、黒崎研堂の『庄内日誌』の明治九年四月には「お城の取り壊し作業書くに忍びず」と記されている。山形城は存続とされたにもかかわらず、廃城になった城と同じ時期に払い下げられて破却されてしまった。酒井家臣の松宮長乳の日記『老いの友』には「(明治五年四月頃)御城内御道具御城外へ夫々御片付」とある。多くの襖絵の中でなぜ「竹林図」が残されたのだろうか。
『雞肋編』巻三十八の「年始御規式帳 二」によれば、一月三日に大庄屋および鶴岡・酒田の町人年寄・御用聞町人らのお目見えの儀がなされるのが恒例だった。この日には桐の間と桜の間の間仕切りが取り払われ、桐の間の拭い縁に並んだ庄屋や町人らが松の間上段に出御した殿様に披露された。御殿に上がったときに真っ先に目に入る玄関に最も近い床の間の巨大な竹林図は、きっと彼らの目を驚かせたに違いない。その時の強い印象がこの図を在りし日の姿のままで残させたのだと思う。
■執筆:
宮島新一
(山形大学教授/日本絵画史)「歴史館だより�18」より
2011.06.10:Copyright (C)
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旧鶴岡城本丸御殿の障壁画とされる九幅はいずれも鶴岡市の文化財に指定されており、昭和五十一年に刊行された『目で見る鶴岡百年 付酒田』上巻に全ての図が掲載されている。これらに加えて新たに、克念社(風間家丙申堂)の金地著色「竹林図」一面が同じく鶴岡城本丸御殿の障壁画として紹介され、平成九年十月二十六日に初めて公開された。
「竹林図」克念社
「竹林図」は一見して、桃山時代の作品とわかる特色を備えているにもかかわらず、他の図と同じく鶴岡藩の御抱え絵師三村常和筆として紹介された。寸法も縦2.7メートル、横5.4メートルと巨大で、全国的にも遺例の少ない貴重な作品である。また、普通には「竹虎図」や「竹鶴図」として描かれるにもかかわらず、竹林だけで構成されている点も他に例を見ない。
報道に際して三村常和筆とされたのは次のような文献の存在による。旧庄内藩士、黒谷時敏が明治十一年に著わした『くだくだ草』(史料叢書第7編・昭和三年)に、玄間に接続する建物に「竹の間とて殿の御在国の折は御徒一人づつ出番する所」、「此西の間を桜の間と云いて御広間なり」、「其の西の間を桐の間と云い又金鶏の間とも云う」「其の西の間を松の間と云う御番頭の詰所なり、茲には北へ折曲がりて上段の間もありけり」と部屋の名前を列挙して、「竹の間より此所まで皆金張付けに、常和と云う画工が其物を間毎に書きたるによりてかくは名づけられたる也」と記されている。
これらの間取りや部屋の名前が正しいことは鶴岡市郷土資料館の「出羽国庄内鶴岡城住居絵図」によって確認できる。黒谷時敏は金地の図はすべて三村常和筆としているが、幕末期には確かにそう伝えられていたのだろう。三村常和(1678没)は名前からすると狩野常信(1636〜1713)から一字を戴いたようである。常信は慶安三年(1650)に父、尚信が没した後、わずか十五歳で家督を継いでいる。その翌年に常和は酒井家に抱えられ、承応二年(1653)に酒井忠当に従って庄内に下っている。
画風からすると、本丸御殿障壁画とされているうちで、常和が描いたと見なされるのは致道博物館と木村家に分蔵されている「群鶴図」だけである。田圃に下りたった鶴といういかにも江戸狩野らしい主題と画風であり、致道博物館に襖三面分が一幅、木村家には四面分二幅が残されている。『くだくだ草』に白木書院に関して「西の壁際には鶴の群居たるを書きし金屏風立て置かる」とあるのはこの図のことらしく、諸士のお目見えにあたって外されていた襖絵を屏風と見まちがえたのかもしれない。
「群鶴図」致道博物館
明治期の証言だけでは心許ないので、もう少し古い記録を探ってみよう。『雞肋編』巻十九に、「承応元年より御普請所覚書」という本丸御殿の建築記録がある。そこには「承応二年御城御本丸御居間、御同所御寝間、黒木白木書院、御奥御室三つ表台所、御金蔵、御城御長局、御鷹部屋夜居座敷建」、「明暦元年御城御広間建」、「明暦二年御本丸御小座敷建」などと見える。これらの建築にあわせて三村常和が抱えられ、鶴岡に下向したことがわかる。
画題からすると風間家の「竹林図」は「御広間」の玄関に接続する「竹の間」の大床に張り付けられていた図だったと考えられる。図の横幅はほぼ三間分に相当し、図面の間数と一致する。問題は明暦元年(1655)に建てられたという「御広間」が新築だったのかということである。普通、古い障壁画を新たな建物に再利用した場合には画面が切り取られたり接続に乱れが生ずるものだが、「竹林図」にはそういった形跡はまったく見られない。建物との一体性が極めて強いのである。白木書院など城主の居住空間にあたる多数の建築物が建てられた二年後に「御広間」一棟だけが別に建てられていることを考えると、まったくの新築ではなかった可能性が考えられる。もし、そうだとするといつの建物なのだろうか。
鶴岡藩士の志田則富が著わした、宝暦八年(1758)の序をもつ『鶴ヶ岡昔雑談』(庄内文庫・大正二年刊)には「(御入部の節)御本丸ばかりにて粗末なる萱葺、微々なる御殿ありて一向御手狭なる事なりし、(略)御花畑と申所へ急に仮御殿と号して御普請、(略)御本丸御殿御造営仰せ付けられし」とある。同書に引用される「御鷹匠山田氏雑談」によれば「高畑の御仮御殿には成覚院様御入国以来四五年も御座遊ばされ御本丸御造立卒りて御移徒」とあるので、寛永三、四年(1617・18)には本丸御殿の増築が終わっていたようだ。普通に考えれば、この時の建物ということになるが、「竹林図」にしても、もとは桐間の襖絵の一部だったと考えられる致道博物館の「桐図」や「躑躅図」にしても、画風からすると寛永期以前の作であり、この時に描かれたとは考えられない。
「桐図」致道博物館
「躑躅図」致道博物館
実は、入国当時には貧弱な建物しかなかったとする志田則富の記事には誇張がある。元和八年(1622)に酒井家が最上家より酒田の亀ヶ崎城を受け取った時には豊富な障壁画があったことが記録に残されている。『大泉紀年』の元和八年九月十日の条に所載される「亀崎本丸土蔵帳」によって、書院の「桃之間・墨絵之間・金之間・鷹之間・すすきの間・はきの間」の腰障子および、上広間の「絵かき障子拾貳枚」を引き継いだことがわかる。
さらに、岡田悟・飯淵康一・永井康雄氏による「藩政期における酒田の亀ヶ崎城とその本丸について」(日本建築学会計画系論文集605号・2006年7月)によれば、この時の亀ヶ崎城本丸御殿は七室からなる書院、七十八帖からなる広間、四十帖の上広間、さらに奥を中心に浴室や台所などからなっていたことが明らかにされている。亀ヶ崎城は慶長六年に最上家家臣の志村光安が城主となり、同十四年に同人が没したあと光惟が継いだものの、十九年に鶴岡にて一栗兵部に暗殺されたため、以後は最上家の直轄地となったものである。
一方、鶴岡城は当初から最上家の直轄地であり、連歌師乗阿による慶長八年(1603)の『最上下向道記』には「(六月)羽州庄内今あらため鶴岡といふにいたれは御城の普請の奉行衆とて」とあって、最上義光の命によって普請が進められていた。義光は晩年には庄内地域の開発経営に力を注いでおり、慶長九年(1604)閏八月二日の北館大学宛最上義光書状には「鶴岡へもおりおりまかりいて」とある。この時までには御殿は完成していたようで、城代として新関因幡守久正が置かれていた。鶴岡城の引き渡しの際には兵具類の記録しかないが、数は亀ヶ崎城を上回っている。慶長十七年五月九日付北館大学宛書状には「つるおか諸道具風すかし候はんために此もの共相下し候」とある。御殿についても亀ヶ崎城の規模を下回ることはなかったであろう。
「竹林図」を最上義光が慶長九年に建てた鶴岡城御殿の障壁画としても年代に問題はない。慶長十五年に完成した仙台城本丸御殿障壁画の一部である二曲一隻の「竹図」(仙台市博物館)と比較するとより柔軟な趣があり、いっそう古風である。また同じく慶長十五年頃に創建された熊本城本丸御殿が近年再建されたが、その根拠となった「御城内御絵図」(1769)の大広間の間取りと画題は鶴岡城の「御広間」とよく似ている。式台の間につづいて「鶴の間」があるところが違うが、奥へ「梅の間、桜の間、桐の間、若松の間」と並んでいるのは、梅が竹に入れ替っているだけでまったく同じである。
ただし、厄介な問題がもう一つある。「竹林図」には二重に金雲が描かれているのに対して、「桐図」や「躑躅図」は総金地で雲が描かれていない。この二つは別の絵師の手になるもので、制作年代についても若干の差を考えなくてはならない。両者の来歴については異なるルートを考える必要がある。
そこで再び『鶴ヶ岡昔雑談』にもどると、「小寺信正聞書の内に云う」として「京極家の御家取壊の時御書院の張出御取寄せ成らせ候て荘内へ御差下仰せ付けられ、今の御城金張付絵の間は皆彼京極家の張付を御取寄御張らせ遊され候由」という記事が見出される。小寺信正によれば、金張付け絵は宮津京極家の絶家に際して江戸屋敷を拝領した時に庄内に取寄せたというのである。しかしながら、『徳川実紀』の寛文六年(1666)五月七日には「京極丹後守が自邸は松平遠江守忠倶に、麻布別墅は松平対馬守忠豊にあづけらる」とあってその信憑性が疑われる。だが、『雞肋編』巻百四十二には「小嶋氏筆記」として「寛文七年末六月十五日(養正公御代也)大手先御屋敷差上られ、大名小路京極丹後守様上り屋敷御拝領、但是ハ御装束屋敷」とあって、この時拝領したのは自邸ではなく登城にあたって装束を改めた装束屋敷だったことがわかる。京極家の屋敷を拝領したのは事実となったが、寛永十八年(1641)および、明暦三年(1657)という二度の大火を経た後の大名の江戸屋敷に、桃山時代の障壁画が残されていたとはとても考えにくい。寛永大火では九十七町が焼け、百二十三の大名屋敷が焼失したため大名火消しが設置されるきっかけとなった。明暦の大火はいわゆる「振袖火事」のことで、過去最大規模の火災だったことで知られている。
京極家の江戸屋敷から引き取ったことが怪しいとなると、同じ頃の寛文元年(1661)に亀ヶ崎城の本丸に新たに広間を建造しているので、その際に旧御殿の障壁画が鶴岡城に運ばれたということも考えたくなる。だが、小寺信正は享保年中(18世紀初め)に『荘内物語』を著わした人物であり、京極家の屋敷を拝領した年代に近く信憑性は決して低くない。少なくとも他家の取り潰しにあたって金碧画を入手した、という内容に関してはまだ検討の余地がある。
『大泉紀年』に、寛永十年末に断絶した島根・松江藩主、堀尾山城守忠晴の御屋敷を拝領したことが寛永十一年(1634)にみえる。六月二十六日付け村井兵左衛門あて書状に「堀尾山城守殿御屋敷御拝領御移被遊候由目出度」とある。堀尾家の屋敷拝領は慶長六年(1601)の大火以後、寛永十八年の大火以前のことで、「桐図」や「躑躅図」の年代とも矛盾はない。ちなみに断絶した堀尾家のあとに松江藩主となったのは小浜藩の京極忠高であった。忠高と絶家となった宮津藩の京極忠国の父、高広は従兄弟の関係にあたる。その忠高も寛永十四年(1637)に末期養子として甥、高和を立てたが認められず丸亀
に改易となっている。どうやら小寺信正は京極高国の断絶と京極忠高の改易とを混同した節がある。
「竹林図」と「桐図」および「躑躅図」との画風の違いを説明しようとすると、「竹林図」については最上義光時代のものとし、「桐図」と「躑躅図」は断絶した堀尾家の江戸屋敷から引き取ったというように、別ルートによる伝来を想定しなくてはうまく説明できない。「竹林図」は今のところ最上時代の障壁画の可能性がある唯一の遺品と思われる。
時代が大きく変化するときには文化財や美術品が失われる。明治になって破壊された文化財は廃仏毀釈と廃城令によるものがとりわけ甚大である。明治六年の「廃城令」によって全国で百四十四の廃城(鶴岡・新庄・上山・米沢を含む)が決まり、黒崎研堂の『庄内日誌』の明治九年四月には「お城の取り壊し作業書くに忍びず」と記されている。山形城は存続とされたにもかかわらず、廃城になった城と同じ時期に払い下げられて破却されてしまった。酒井家臣の松宮長乳の日記『老いの友』には「(明治五年四月頃)御城内御道具御城外へ夫々御片付」とある。多くの襖絵の中でなぜ「竹林図」が残されたのだろうか。
『雞肋編』巻三十八の「年始御規式帳 二」によれば、一月三日に大庄屋および鶴岡・酒田の町人年寄・御用聞町人らのお目見えの儀がなされるのが恒例だった。この日には桐の間と桜の間の間仕切りが取り払われ、桐の間の拭い縁に並んだ庄屋や町人らが松の間上段に出御した殿様に披露された。御殿に上がったときに真っ先に目に入る玄関に最も近い床の間の巨大な竹林図は、きっと彼らの目を驚かせたに違いない。その時の強い印象がこの図を在りし日の姿のままで残させたのだと思う。
■執筆:宮島新一(山形大学教授/日本絵画史)「歴史館だより�18」より