最上義光に仕えた二人の土肥半左衛門 【はじめに】:山形の歴史・伝統
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【はじめに】
元和八年(1622)夏の頃、山形藩主・最上源五郎義俊は家内騒動の責任を問われ、早々と羽州の地を去っていった。こゝに祖父の義光が築き上げた大藩は消滅、新たに近江・三河に一万石を給される。この大国を失う大騒動による大家臣団の消滅は、共に蓄積されてきた膨大な藩政資料や、個々の家伝等の四散を招く結果ともなり、それが、後世に於ける最上家研究に、多大なる支障をもたらしてきてしまった。その結果、どうしても他藩資料や物語・軍記などを活用しての調査に、頼らざるを得ない有様である。
最上義光の家臣に土肥半左衛門という人物がいた。多くは軍記などに登場し、各種の分限帳に「千石・弐千石」などの記録がある。この半左衛門とは、越中出身(以後、「越中土肥」)と、秋田仙北の増田出身(以後、「増田土肥」)のいずれを指すのか。
物語・軍記(以後、「軍記類」)などの語り口を見ると、その出自については殆ど語ってはおらず、その終末についても、慶長十九年(1614)の清水義親襲撃事件の際に、義親と共に殺されたとか、また他国へ逃亡し捕らえられ殺されたとか、様々な形で伝えられて来ている。後世の研究者にしても、敢えて半左衛門複数説を取り上げる程の、魅力ある人物ではなかったのか。これら軍記類の記事を越える評論には、管見の限り拝見するには至っていない。
■執筆:小野未三
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