関東に於ける最上義光の足跡を求め 【3】:山形の歴史・伝統
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関東に於ける最上義光の足跡を求め 【3】
関東に於ける最上義光の足跡を求め ―特に関ヶ原戦以後に限定して―
【三 幕府開設の頃】
慶長八年(1603)三月廿一日、徳川家康は将軍宣下御礼のため上洛[注1]、征夷大将軍に任ぜられる。この時の参内行列の中からは、義光の姿は見出だせないが、公家の日記などにも「神君征夷大将軍宣下之刻三月伏見へ参上」とあり、義光も家康の上洛に付随していたことが分かる。伊達政宗も正月から在府しており、江戸にいた嗣子忠宗も、伏見にて家康に御目見を果たしている。上杉景勝は米沢に在り、この二月から江戸桜田屋敷の普請が始まっている。
この家康の将軍宣下に係る一連の行事の中で、公家・諸大名達を二条城に招き、能楽を饗したのは四月四日のことで、そこには義光の姿もあった。
四月四日庚寅、霙、八時分雨、殿中御能有之間、冷同道、早朝ニ参了、辰下刻、先朝有之、事済々事也、次大樹(家康)御出座、次相伴衆各被参了、……出羽侍従、最上…(欠字)等、下之段足付也、[注2]
そして、家康が京・大坂での行事を済ませ、伏見を発し江戸へ向かったのは十月十八日である。義光の四月以降の行動については定かではないが、この年の八月に国元で起きた嫡子義康暗殺事件に、注目せねばならないだろう。義光のこの時期は国元に在ったであろう。
『筆濃餘理』などに、義光が庄内の狩川館主の北館兵部に宛てた書状がある。
近日庄内へ下向間、其本之路次中宿等之儀、無油断可申付候、日限之事重而申遣候、恐々謹言
六月十日 義光(花押)
北館兵部少輔とのへ
同 大学とのへ
この書状は、義光の庄内下向の日時と警護の打合わせに関わるもので、これは鶴岡城普請に際しの義光の鶴岡入りとして、慶長八年(1603)頃ではとしているので、これが事実とすれば、義康暗殺事件に極めて近接した時期であったろう。翌九年八月、松前藩が幕府へ鷹献上に際し、その通行手段としての駅伝の朱印を受理している。その際に経路の諸大名に宿泊や餌などの便宜を計るべく「奉書[注3]」授けている。その大名の中に義光の名
が見えることから、義光の在府していることが分かる。
また徳川家に近侍の次男の家親は、秀忠の嫡子竹千代(家光)の三七夜の席に招かれているのも、この八月のことであり、家親を通して徳川家との親密さの一端を伺うことができる。
慶長十年(1695)四月、家康は将軍職を秀忠に譲る。秀忠は将軍宣下を受けるため上洛、二十六日の参内行列の武者達の中に義光の姿もあった[注4]。この年の正月末は暖気、二月三月旬共寒、中でも十二、二十三日比打つつき、三度大霜、草木為之凋、というような極めて不順な天候の中での上洛であった。その行列を覗くと四番手の位置に義光の姿があった。そして、秀忠の新将軍としての上方での諸行事を済ませ、上洛した諸大名達に暇を与え帰国を許したのは、五月十一日のことである[注5]。
このように、東北の大名達も帰国を許される中で、義光の京を離れたのはいつ頃であったろうか。在京中の三月二十二日と翌月の二十四日に、義光は公家の舟橋秀賢の来訪を受けている。秀賢は明経家学の継承者として、当時の天皇・公家を始め多くの武家衆とも交遊を持ち、家康とは役儀のみならず頻繁に交遊を重ねていた。連歌の素養もあり、禁中、公家間での連会などにも度々顔を見せている。義光との出会いについても、その日記『慶長日件録[注6]』に詳しい記述がある。この日記から、義光が連歌や書を通し、公家との交遊関係の一端を知ることができよう。そして、京での私的な面での日々を持ちながら、帰国の途に就いたのはいつ頃であったろうか。この年の五月十二日、下対馬守と志村伊豆守を従え、金峯権現に参拝したというから、それまでには帰国したものと思われる。
併せて、この秀忠の上洛には家親も付随している。そして、従五位下・侍従に叙任したのはこの時である。これは秀忠の将軍就任に伴うもので、池田・前田・細川・最上という、関ケ原戦で積極的な働きを見せた大名家に限り、いわば功賞のひとつであった。
■執筆:小野末三
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[注]
1、「義演准后日記」(『大日本史料』12編之l)
三月廿一日晴、今日、将軍家康上洛、帰路見物驚目了、来廿五日、将軍宣下御礼ノ参内、
2、「言経卿記」(『大日本史料』12編之l)
3、「松前文書」(『大日本史料』12編之2)
4、『寛政重修諸家譜』
十年台徳院殿御上洛に供奉し、四月二十六日将軍宣下の拝賀として、御参内の時も扈従す、
「慶長十年御参内行列記」(『大日本史料』12編之3)
盛大な行列の最後尾の八番・塗輿之衆の中に、伊達、秋田氏などの中に、最上侍従の名がある。
5、『当代記・巻三』
此比今度上洛之関東衆、依将軍仰、先立手思々下国、十五日、将軍家関東下向、
6、「慶長日件録」(『史料纂集』)
廿二日、伏見へ右幕下御見廻ニ行、御対面也、次右府(家康)公へ参、御対面有御振舞、次最上殿(義光)へ行……廿四日……午刻御取置ニ参内、次大樹へ参、次最上義光へ行、有晩喰、古今古本被見之、
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【三 幕府開設の頃】
慶長八年(1603)三月廿一日、徳川家康は将軍宣下御礼のため上洛[注1]、征夷大将軍に任ぜられる。この時の参内行列の中からは、義光の姿は見出だせないが、公家の日記などにも「神君征夷大将軍宣下之刻三月伏見へ参上」とあり、義光も家康の上洛に付随していたことが分かる。伊達政宗も正月から在府しており、江戸にいた嗣子忠宗も、伏見にて家康に御目見を果たしている。上杉景勝は米沢に在り、この二月から江戸桜田屋敷の普請が始まっている。
この家康の将軍宣下に係る一連の行事の中で、公家・諸大名達を二条城に招き、能楽を饗したのは四月四日のことで、そこには義光の姿もあった。
四月四日庚寅、霙、八時分雨、殿中御能有之間、冷同道、早朝ニ参了、辰下刻、先朝有之、事済々事也、次大樹(家康)御出座、次相伴衆各被参了、……出羽侍従、最上…(欠字)等、下之段足付也、[注2]
そして、家康が京・大坂での行事を済ませ、伏見を発し江戸へ向かったのは十月十八日である。義光の四月以降の行動については定かではないが、この年の八月に国元で起きた嫡子義康暗殺事件に、注目せねばならないだろう。義光のこの時期は国元に在ったであろう。
『筆濃餘理』などに、義光が庄内の狩川館主の北館兵部に宛てた書状がある。
近日庄内へ下向間、其本之路次中宿等之儀、無油断可申付候、日限之事重而申遣候、恐々謹言
六月十日 義光(花押)
北館兵部少輔とのへ
同 大学とのへ
この書状は、義光の庄内下向の日時と警護の打合わせに関わるもので、これは鶴岡城普請に際しの義光の鶴岡入りとして、慶長八年(1603)頃ではとしているので、これが事実とすれば、義康暗殺事件に極めて近接した時期であったろう。翌九年八月、松前藩が幕府へ鷹献上に際し、その通行手段としての駅伝の朱印を受理している。その際に経路の諸大名に宿泊や餌などの便宜を計るべく「奉書[注3]」授けている。その大名の中に義光の名
が見えることから、義光の在府していることが分かる。
また徳川家に近侍の次男の家親は、秀忠の嫡子竹千代(家光)の三七夜の席に招かれているのも、この八月のことであり、家親を通して徳川家との親密さの一端を伺うことができる。
慶長十年(1695)四月、家康は将軍職を秀忠に譲る。秀忠は将軍宣下を受けるため上洛、二十六日の参内行列の武者達の中に義光の姿もあった[注4]。この年の正月末は暖気、二月三月旬共寒、中でも十二、二十三日比打つつき、三度大霜、草木為之凋、というような極めて不順な天候の中での上洛であった。その行列を覗くと四番手の位置に義光の姿があった。そして、秀忠の新将軍としての上方での諸行事を済ませ、上洛した諸大名達に暇を与え帰国を許したのは、五月十一日のことである[注5]。
このように、東北の大名達も帰国を許される中で、義光の京を離れたのはいつ頃であったろうか。在京中の三月二十二日と翌月の二十四日に、義光は公家の舟橋秀賢の来訪を受けている。秀賢は明経家学の継承者として、当時の天皇・公家を始め多くの武家衆とも交遊を持ち、家康とは役儀のみならず頻繁に交遊を重ねていた。連歌の素養もあり、禁中、公家間での連会などにも度々顔を見せている。義光との出会いについても、その日記『慶長日件録[注6]』に詳しい記述がある。この日記から、義光が連歌や書を通し、公家との交遊関係の一端を知ることができよう。そして、京での私的な面での日々を持ちながら、帰国の途に就いたのはいつ頃であったろうか。この年の五月十二日、下対馬守と志村伊豆守を従え、金峯権現に参拝したというから、それまでには帰国したものと思われる。
併せて、この秀忠の上洛には家親も付随している。そして、従五位下・侍従に叙任したのはこの時である。これは秀忠の将軍就任に伴うもので、池田・前田・細川・最上という、関ケ原戦で積極的な働きを見せた大名家に限り、いわば功賞のひとつであった。
■執筆:小野末三
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[注]
1、「義演准后日記」(『大日本史料』12編之l)
三月廿一日晴、今日、将軍家康上洛、帰路見物驚目了、来廿五日、将軍宣下御礼ノ参内、
2、「言経卿記」(『大日本史料』12編之l)
3、「松前文書」(『大日本史料』12編之2)
4、『寛政重修諸家譜』
十年台徳院殿御上洛に供奉し、四月二十六日将軍宣下の拝賀として、御参内の時も扈従す、
「慶長十年御参内行列記」(『大日本史料』12編之3)
盛大な行列の最後尾の八番・塗輿之衆の中に、伊達、秋田氏などの中に、最上侍従の名がある。
5、『当代記・巻三』
此比今度上洛之関東衆、依将軍仰、先立手思々下国、十五日、将軍家関東下向、
6、「慶長日件録」(『史料纂集』)
廿二日、伏見へ右幕下御見廻ニ行、御対面也、次右府(家康)公へ参、御対面有御振舞、次最上殿(義光)へ行……廿四日……午刻御取置ニ参内、次大樹へ参、次最上義光へ行、有晩喰、古今古本被見之、