「山形最上氏と中野氏・寒河江大江氏―義光のゆかりを探る」 胡 偉権:山形の歴史・伝統
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周知の通り、山形城主最上義光の父・義守は元々最上氏一族の中野氏の出身で、九代目義定の養嗣子として家督を継いだ人物である。そもそも、中野氏は最上氏三代目満直の子・満基を祖とし、そして八代目義淳の時、次男・義清に中野氏を継がせたと言われている。だから、宗家最上氏にとって中野氏は最も近い血筋を引いている分家といえる。
一方、義光の祖父にあたる義定について、すでに片桐繁雄氏は当館のページで詳しく解説している(注一)。片桐氏は『大江系図』を注目し、最上氏と寒河江氏、そして山野辺氏の縁戚関係を整理した(注二)。簡単に要約すればすなわち、「義定は山野辺氏から妻を入れ」て、その妻の母は寒河江宗広の娘とされている。また、宗広の娘には「中野妻」と記されており、それは正しいとすれば、寒河江氏は最上氏、中野氏とも縁戚関係を持つわけである。
―二、再び『大江系図』へ―
ただ、ここで注目しておきたいのはその前である。再び『大江系図』を見てみると、宗広の一人の姉妹にも「中野妻」と注記されており、そして、その女性より前には「中野妻」となった女性がいない。それは何を意味するのだろうか。
まず、上記の『大江系図』を信用すれば、寒河江氏は二代わたって中野氏と縁約を結んでいることになる。また、時代的に考えると、殆どの最上氏系図では、義定の父・最上義淳は永正元年(1504)頃に死去したとされている(注三)。一方、義定の母は明応八年(1499)に死没したので、義定の生年下限はそれ以前となる(注四)。そしてその没年は永正十七年(1520)とされているから、義定とすでに中野氏に入嗣していたはずの義建は遅くても永正元年以前、上限は大体文明末ないし長享年間頃(1470/80年代)の生まれと推定される。
一方、寒河江氏側を見てみると、『大江系図』では、寒河江知広(宗広の父)は明応三年(1494)に死去したとされている。それによって、「初代の中野妻」となった宗広の姉妹の生年下限は明応三年とならねばならないから、彼女は中野義建とはほぼ同世代の人間ということは十分にあり得る。
さらに、『常念寺本最上家系図』では、義淳は「中野山形両知行」とあり、言い換えれば、義淳は山形、中野両方の領主で、後に子・義建に中野氏を継がせた通説を踏襲すれば、「初代の中野妻」となった宗広の姉妹の結婚相手は選択肢として父の義淳か、子の義建としか思えないが、ここでは、子の義建に比定したい。
―三、二代目の「中野妻」の夫―
そうすると、片桐氏が指摘された宗広の娘(二代目の「中野妻」)の夫は誰なのだろうか。残念ながら、宗広の娘の生没年は伝えられていないため、仕方なくて先の方法で推算してみよう。
偶然なことに、宗広は義淳と同じく永正元年(1504)に死去したとされる。その末子で家督を相続した孝広は文亀三年(1503)生まれと記されるから、姉にあたる宗広の娘の生年下限は文亀三年となる(注五)。
それに対し、中野氏に継いだ義建はどうだろうか。先にも指摘した通り、彼の生年はせいぜい長享(1480年代後半)頃の生まれだろうから、年代的には宗広の娘とも合致するが、一方、息子の義清は『山形市史』所収の諸本の最上氏系図をみれば、義守の実父として登場を明記されるのはほとんどであるから、彼を無視することができない(注六)。
ただし、孫の義守は大永元年(1521)生まれで、その後、二歳で宗家に継いだと伝わるから、当時、父の義清はまだ青年と思われる。ただ、それにしても、義清の時代は父の義建がもちろん、伯父の義定とも差が小さく、むしろほぼ重なってしまうから、やや不自然と感じる。可能性として義建は若くして義清を生み、さらに義清もまた若くて義守を生んだとしか考えられないのだろう(注七)。
―四、高野山観音院過去帳の発見―
ここで注目に値する史料がある。それは、高野山観音院過去帳甲本である。
同史料は近年『仙台市史』の補遺史料として『市史せんだいvol.12』に既に紹介された(注八)。それは紀伊高野山観音院に所在したとされる伊達氏と関係する人物の過去帳である。その中には伊達氏のほか、最上を含むほかの南奥羽諸豪族の位牌も記録されているため、極めて貴重な史料というまでもない。
さて、その中にはこのような記録が残される。
東前院殿 モカミ サカヘ殿姉
快庵良慶長光尼位 中野殿大方 逆修
天文十六年未
すなわち、「快庵良慶長光尼」(以下は便宜上「長光尼」と略称する)という女性は天文十六年(1547)に逆修を行ったのである。逆修とは死後の行事を生前にあらかじめ執り行うことだから、「長光尼」は天文十六年当時にはまだ健在するわけである。
大方とは貴人の母を指す通称で、つまり、「長光尼」は中野殿の母親である。このように、「長光尼」という最上中野殿の大方で、寒河江殿の姉である女性の存在は確かだが、問題は彼女の素性である。いったい誰だろうか。
―五、「長光尼」と義守―
前記した寒河江・中野・最上三氏の関係をもう一度見ると、候補として最も有力なのは、義清の妻と推定される宗広の娘(二代目「中野妻」)である。実際、時代的に考えると、天文十六年の時点の最上義守は既に二十五歳と数え、当時は最上家当主だから、「中野殿」と称することはありえず、なお、父の義清は中野氏家督の座に据えることもやや不自然に覚える。
さらに「サカヘ殿姉」という記事を重視すれば、天文十六年当時の寒河江氏の当主は兼広で、彼が寒河江家当主となった翌年である。その前の当主である広種は孝広の異母兄にあたる人物で、「長光尼」の兄弟である。したがって、合わせて考慮すると、「長光尼」は兼広の姉という可能性もあるが、裏づけられる史料がなく、そして孝広、広種との関係をも考慮すれば、やや低いと思われる。
ここで、筆者の憶測が許されれば、前述した通り、寒河江宗広と義定とは同世代であり、そして宗広の娘は義清ともほぼ同世代の人から考えると、「長光尼」は宗広の娘で、義清の妻である。さらに、天文十六年当時の中野殿は「長光尼」と義清の子で、最上義守の兄弟に当たる人物と推定したい。
―六、「長光尼」と永浦尼とは―
上記の推測には一つの疑問が残る。すなわち、あの宝光院の文殊菩薩騎獅像を編んだ永浦尼との関係である。それに関しては、松尾剛次氏は永浦尼を義守の妻と比定している(注九)。それに対して、当館にも掲載された粟野俊之氏の考察によれば、粟野氏は刺繍にある「源末葉」という文言を重視し、永浦尼を義守の姉妹としている(注十)。
先に結論から言えば、「長光尼」は寒河江氏の出身だから、「源末葉」はありえないため、永浦尼とは別人に違いない。ただ、「長光尼」と永浦尼は共に中野氏ゆかりの女性と見てよく、「長光尼」は義清の妻で、当時の中野氏当主の母親であれば、永浦尼と同時期に存在する可能性が高く、可能性としては「長光尼」と永浦尼は親子、もしくは嫁姑関係かもしれない。
―七、おわりに、最上氏と中野氏―
以上は片桐氏の成果に基づいてさらに整理・推測されたものである。上記の鄙見が許されれば、更なる可能性は生み出そう。
というのは、のちに天正二年の最上の乱において、『性山公(伊達輝宗)治家記録』に登場する「中野」の比定である(注十一)。『治家記録』天正二年の記事では、中野氏の名を「氏淳」としており、昔はその人を義光の弟・義時と比定されていたが、義時の実在は疑わしくなり、近年の大沢慶尋氏の研究では、それを義守ではないかと推測されている(注十二)。
ただし、「長光尼」の発見によって、すくなくとも天文年間には中野殿がまだ実在しており、義守とは同時期に存在する人という可能性が高くなるから、天正二年の最上の乱の「中野氏淳」は果たして義守かどうかは、また再考する必要があろう。
むろん、関連史料は極めて少ないため、新しい史料の発見に俟たねばならないが、上記の拙論はあくまでも一つの仮説として提示し、今後の研究に役立てばと切に願う次第である。
※最上中野寒河江系図案 >>こちら
■執筆:胡 偉権(歴史家/一橋大学経済学研究科博士後期課程在籍生)
≪注≫
(注一)http://mogamiyoshiaki.jp/?p=log&l=94673
(注二)ここでいう『大江系図』は、『寒河江市史 大江氏ならびに関係史料』所収「天文本大江系図」である。
(注三)『山形市史 史料編一 最上氏関係史料』所収する各種の最上氏系図に参照
(注四)『山形市史 史料編一 最上氏関係史料』所収「最上源代々過去帖」
(注五)中世武家の系図類には、女性に関する記載は殆ど簡略されるから、兄弟同士との長幼の序は不明なところが多い。孝広の場合、家督相続の際には父は他界しているから、幼年の家督相続との可能性が高く、宗広の娘はその姉と考えられる。
(注六)その殆どは、義守には「中野義清次男」という傍注が入れられている。
(注七)実際、義定の生没年から考えると、義守との年齢差はそんなに大きくないのであり、義定は弟が入嗣した中野氏が三代を経歴することは本文の推測したようにならねばならないだろう。
(注八)『市史せんだい』vol.12、2002年、仙台市
(注九)http://www.yamagata-u.ac.jp/jpn/yu/modules/topics0/article.php?storyid=17
(注十)http://mogamiyoshiaki.jp/?p=log&l=125870
(注十一)実際、『治家記録』天正二年の記事は「伊達輝宗天正二年日記」を参考にして作成されたものである。「日記」のほうでは、「中野」のみ記されて、「氏淳」の名は出ていない。仙台藩による『治家記録』の編さん過程で、どのような情報を以て「氏淳」と比定されたかは不明である。ただ、「氏淳」の読みに関しては明記されていないものの、「うじあつ」も「うじきよ」も読めるため、後者の場合、「義清」(よしきよ)の誤記という可能性もあるが、一つの仮説として掲げておきたい。
(注十二)大沢慶尋「「天正二年最上の乱」の基礎的研究 : 新発見史料を含めた検討」、青葉城資料展示館研究報告、青葉城資料展示館編,特別号、青葉城資料展示館, 2002年(改訂版)