上杉文華館「初公開 上杉鷹山関連および幕末・明治期資料」:山形の歴史・伝統
山形の歴史・伝統 |
上杉文華館「初公開 上杉鷹山関連および幕末・明治期資料」
2018.06.29:Copyright (C) 伝国の杜 情報BLOG
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2018年度の上杉文華館は、「初公開 上杉鷹山関連および幕末・明治期資料」をテーマに国宝を中心としたゆかりの文化財、貴重な史料をご覧いただきたいと思います。
【展示期間】平成30年6月28日(木)〜7月24日(火)
《第4回 上杉家の慶事》
国宝上杉家文書の近世文書には上杉鷹山周辺の多くの内政文書が含まれています。慶事も様々ありますが、10代藩主上杉治広が文化7年(1810)12月16日、左近衛少将に任じられたことに対し、江戸にいる治広自身が米沢の世子斉定に伝えた書状一通と、その情報がもたらされた米沢の鷹山から、江戸の治広に送られたであろう書状案一通を紹介します。
大名家には家格があって、任じられる官位が決まっていました。上杉家は中納言であった景勝は別格として、2代藩主定勝が少将に任じられて以降侍従止まりでした。定勝以来の少将の任官ですから喜びもひとしおです。鷹山も「数代絶えてなかった」と記しています。江戸時代後期に総じて官位の上昇が見られることについての研究もありますが、鷹山は治広の日頃の慎み深い態度や働きが顕著にあったことを褒めたたえ、紙上に尽くせぬ喜びと綴っています。また、治広は上杉重定の三男で本来上杉家を継ぐ人物ではなかったため、「天の寵霊(尊い恵み)」によって上杉家の家督を相続し、今また昇進の栄に浴したことは、ご先祖様への忠孝、これに過ぎることはないと文章を訂正しています。さらに奢ることがないように戒め、共遜の徳を積むよう諭すことも忘れません。
なお、上杉家の家格についての詳細は、当館図録『国持大名上杉家』を参照ください。
次に、治広が娘婿の世子宮松(後の11代藩主斉定)に送った、新年を祝う書状です。江戸屋敷の面々や治広自身も何事もなく年越しができた喜びの近況を伝え、米沢の鷹山への気遣いも垣間見えます。参勤交代で江戸と領国米沢に分かれて暮らす家族の新年のご挨拶です。現在の年賀状に相当するもので、それぞれつつがなく迎える新年は、何より喜ばしいものでしょう。
最後の一通は、元服を祝う書状です。8代藩主上杉重定の長子勝煕の三男勝庸から兄である若殿様(斉定)に送られたものです。勝庸の元服(前髪取り)と弟政之助の判元服(袖留)の祝いに対し、お礼を述べています。勝煕は重定の長子ですが、鷹山が上杉家の世子に決まってから側室廓如院(お勢の方)との間に誕生しました。しかし、鷹山のあとの10代藩主にはその資質から同母弟の治広がつき、勝煕は上杉姓を名乗らず畠山氏を称しました。しかし、子供たちが上杉家を継承していくことになりました。長男は早世しましたが、次男斉定が米沢藩11代藩主となり、四男勝義は米沢新田藩4代藩主を相続しました。三男勝庸が上杉姓に復し勝煕の跡を継ぎました。書状に登場する五男の政之助は旗本松野家の養子となって助敬を名乗りました。
また、織田信長が謙信に贈った狩野永徳の「上杉本洛中洛外図屏風」は、複製(2作目=複製B)の展示となります。
▼ コレクショントーク
平成30年6月30日(土)
14:00〜
場所: 常設展示室 上杉文華館
※入館料が必要です。
皆さまのご来館を心よりお待ちしております。
【お問い合わせ】
米沢市上杉博物館 0238−26−8001