斯波 兼頼(しばかねより)山形初代城主:山形の歴史・伝統
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斯波 兼頼(しばかねより)山形初代城主
1316〜1379
斯波家氏 足利泰氏の長男であるが、庶子。
下総國香取郡大崎に住み、斯波郡を相伝されて往来、斯波氏を名乗ると伝わる。
斯波家氏―宗家―宗氏(家貞)―家兼(大崎氏祖)―兼頼(最上氏祖)
最上兼頼―直家・・・・・・・・・・・・・・・・義守―義光(よしあき)
最上兼頼 羽州管領として「山形城」(霞城・かじょう)を築く
最上義光 妹の「義姫」は伊達輝宗の正室で、伊達政宗の母。
山形城主最上氏の祖。
奥州探題斯波家兼の二男、南北朝動乱のはじめの頃、奥羽は南朝方の勢力が強く、これに対して足利氏は北朝勢力拡大のために、奥州探題を遣わして軍事・民政を司らせた。
斯波家兼は貞和2年(1346)奥州大崎の地に下向し、その長男直持は陸奥を管し大崎氏の祖となった。
次子兼頼が、出羽を管する羽州(出羽)探題(資料によっては出羽按察使)として山形に入部したのは、延文元年(1356)41才の時である。当時の山形地方も南北両朝勢力の争乱の巷で、「持明院殿方足利之将軍」と「大覚寺殿方新田殿」の合戦が絶えず、各国は飢渇に陥っており、南北両朝勢力の確執は山寺立石寺にも及び、立石寺山中において両朝の衆徒らが抗争をつづけていた。
天童舞鶴山には北畠天童丸がいて南朝勢力の回復に努めており、山形近くの山家には南朝方の山家信彦があって兼頼の山形入部を阻んでいた。ことに村山郡の川西地方には南朝方の大江氏が、鎌倉時代以来寒河江庄の地頭として根強い在地勢力をうちたてていた。兼頼はこうした山形への入部に先立って、まず山家氏と婚を通じて懐柔し、政略的手段を持ってこれを抑えた。
さらに成生庄地頭里見義景に実子がなかったので、兼頼の弟義宗をその養子とし、兼頼の孫頼直を義宗の養子として、北畠天童丸が居を津軽浪岡に移したとき、この頼直に舞鶴山上に山城を築かせ天童頼直を称させた。
また山形城の城郭建築に先立って、山寺立石寺の根本中堂を再建し、山形に日吉神社を勧請するなどの宗教的政策により、長い戦乱に悩んでいた当地方民心の収攬をはかった。文中2年(1373)には、最大の南朝勢力だった大江氏も足利方に降り、兼頼は、村山郡の豪族を討伐するよりは、懐柔することによって戦かわずして勢力の拡大を果たした。
兼頼は藤沢清浄光寺十代の遊行元愚に帰依し、其阿と号し大手門前に遍照山無量寿院光明寺を建て、天授元年(1375)60才で家督を長子直家に譲って隠居、自らその開山となった。元授5年(1379)64才で卒去。
光明寺は後年鳥居氏の城修築のさい、城の東(寺町通り)の現在地に移された。寺領1750石、出羽時宗50余ヵ寺の触頭だった。境内には兼頼の御廟があり、寺宝に「光明寺由来記」、等身大の兼頼木像がある。
誉田慶恩「奥州の驍将・最上義光」より
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斯波家氏 足利泰氏の長男であるが、庶子。
下総國香取郡大崎に住み、斯波郡を相伝されて往来、斯波氏を名乗ると伝わる。
斯波家氏―宗家―宗氏(家貞)―家兼(大崎氏祖)―兼頼(最上氏祖)
最上兼頼―直家・・・・・・・・・・・・・・・・義守―義光(よしあき)
最上兼頼 羽州管領として「山形城」(霞城・かじょう)を築く
最上義光 妹の「義姫」は伊達輝宗の正室で、伊達政宗の母。
山形城主最上氏の祖。
奥州探題斯波家兼の二男、南北朝動乱のはじめの頃、奥羽は南朝方の勢力が強く、これに対して足利氏は北朝勢力拡大のために、奥州探題を遣わして軍事・民政を司らせた。
斯波家兼は貞和2年(1346)奥州大崎の地に下向し、その長男直持は陸奥を管し大崎氏の祖となった。
次子兼頼が、出羽を管する羽州(出羽)探題(資料によっては出羽按察使)として山形に入部したのは、延文元年(1356)41才の時である。当時の山形地方も南北両朝勢力の争乱の巷で、「持明院殿方足利之将軍」と「大覚寺殿方新田殿」の合戦が絶えず、各国は飢渇に陥っており、南北両朝勢力の確執は山寺立石寺にも及び、立石寺山中において両朝の衆徒らが抗争をつづけていた。
天童舞鶴山には北畠天童丸がいて南朝勢力の回復に努めており、山形近くの山家には南朝方の山家信彦があって兼頼の山形入部を阻んでいた。ことに村山郡の川西地方には南朝方の大江氏が、鎌倉時代以来寒河江庄の地頭として根強い在地勢力をうちたてていた。兼頼はこうした山形への入部に先立って、まず山家氏と婚を通じて懐柔し、政略的手段を持ってこれを抑えた。
さらに成生庄地頭里見義景に実子がなかったので、兼頼の弟義宗をその養子とし、兼頼の孫頼直を義宗の養子として、北畠天童丸が居を津軽浪岡に移したとき、この頼直に舞鶴山上に山城を築かせ天童頼直を称させた。
また山形城の城郭建築に先立って、山寺立石寺の根本中堂を再建し、山形に日吉神社を勧請するなどの宗教的政策により、長い戦乱に悩んでいた当地方民心の収攬をはかった。文中2年(1373)には、最大の南朝勢力だった大江氏も足利方に降り、兼頼は、村山郡の豪族を討伐するよりは、懐柔することによって戦かわずして勢力の拡大を果たした。
兼頼は藤沢清浄光寺十代の遊行元愚に帰依し、其阿と号し大手門前に遍照山無量寿院光明寺を建て、天授元年(1375)60才で家督を長子直家に譲って隠居、自らその開山となった。元授5年(1379)64才で卒去。
光明寺は後年鳥居氏の城修築のさい、城の東(寺町通り)の現在地に移された。寺領1750石、出羽時宗50余ヵ寺の触頭だった。境内には兼頼の御廟があり、寺宝に「光明寺由来記」、等身大の兼頼木像がある。
誉田慶恩「奥州の驍将・最上義光」より