最上義光に仕えた二人の土肥半左衛門 【一 軍記類の中の土肥半左衛門】:山形の歴史・伝統
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最上義光に仕えた二人の土肥半左衛門 【一 軍記類の中の土肥半左衛門】
最上義光に仕えた二人の土肥半左衛門
【一 軍記類の中の土肥半左衛門】
軍記類に登場する半左衛門の記述を見ると、戦いの場での働きぶりは別として、その最期は悪者の印象の濃い話しで締め括られている。最大の見せ場となるのは最上家に大きな禍根を残した二大事件、即ち慶長八年(1603)の最上義光の長子の修理大夫義康、同十九年(1614)三男の清水大蔵義親への襲撃事件に、深く関与している姿であろう。
しかし、この二つの事件に関わったのは、いずれの出身の半左衛門なのか。この事件は共に最上家の継嗣問題に関わる権力争いであり、次男の家親の路線確立を目指すものであった。その中で一人は義康暗殺の実行犯、もう一人は義親支持派として行動している。
ここで、いくつかの軍記類から、半左衛門に関わる部分を要約してみよう。
(A)[最上記]
修理大夫殿生害之事
……山形の御城より直にいそがぬ旅におもむき給ふ、然に内々道にて御生害いたし候へと、戸井(土肥) 半左衛門に被仰付ける間、御通り候道筋に鉄砲を持、木蔭に隠相待居たるに是を間近所の若き者出合、半左衛門と一所に罷在けり……二つ玉にて御へその下を後へ打抜ける間、則真逆に落給ひ……多勢に無勢の事なれば、壱人も不残討れけり、然に彼半左衛門幾程なく、大坂へ手入したる義あらはれ、一門悉御成敗有ければ、義康公の御罸眼前に当りけるとて、請人舌を振ひけり、
(筆者注、義光は義康を廃し、家督を次男の家親に決定する。そして義康を高野山へ追放を計る。その途中、半左衛門一派に襲われ、義康は命を落とした)
(B)[羽源記]
修理大夫殿生害并東海林三郎兵衛討死之事
……庄内大山の住人戸井半左衛門に仰付けられ……庄内丸岡という所にて左右の草原に兵を伏置きて、鉄砲認め其身は木陰に忍び居たるに……二つ玉を以て御臍の下を後へ打抜きければ、暫しもたまはず……さらば此半左衛門幾程なく、清水大蔵大輔殿逆乱の砌、大坂秀頼公へ内通の沙汰顕れ、一門郎従悉く家親公より誅罸せられけり、
(C)[奥羽軍談]
清水落城之事
……大蔵大夫心閑に自害ありければ……半左衛門は大長刀を以渡合しが、運の究にや庭の柳に腰を打当倒れける所を、寄手の者鑓を入突てければ、落重る首を取ける手負の者は有けれ共、名ある侍一人も死せずして、「各おめおめ討れしは、戸井が日比の嗜よりは口惜事」とぞ申ける、
(筆者注、清水義親は家親の追及が迫っていることを、「庄内丸岡の戸井半左衛門方よりこれ有て、密かに清水の城へ忍び落玉ふを」と、半左衛門などの手引きにより、山形城より清水へ落ちていったが、最後は追手を受け命を落とした)
(D)[奥羽永慶軍記]
義光病死 里見之徒党死罪事
……中にも土肥が討手として、奥村常陸介・小国日向守に山形の旗本三十六騎を差添たり、其頃半左衛門は古郷に在けるを、小国・奥村八百余人短兵急に攻懸たり、半左衛門尉か最期の体こそよかりけり、具足取て肩に掛上、帯よりなから我大坂一味にはあらねとも、かかる虚説に滅ん事、只是主君義安の御罰ならんと、大長刀を取て上下十四・五切て出けるか、土肥は鉄砲に胸板を打ぬかれ、其侭倒れて死す、(筆者注、この半左衛門の最期の様子は、後述する[土肥家記]に近似している。元和二年の出来事である)
以上、これら軍記類に見られるように、義康暗殺の実行犯として描かれ、その最期は大坂豊臣方に組みしたとされる清水義親に組み込まれ、世間から誹謗を受ける程に不様な最期を遂げたことになっている。しかし、いずれの軍記類の内容からも、同姓同名の二人の半左衛門が絡んでいたとは云っていない。
この半左衛門は、少なくとも慶長五年(1600)前後から同十九年(1614)の間、最上家に仕えた一人の半左衛門ということになる。しかし、実はそれが越中、増田のいずれの出身の半左衛門であったのか、それは越中土肥の由緒を伝える[土肥家記](延宝九年成立)から、一人の半左衛門の身元とその最期の様子が明確になってきた。軍記類からは、義康を襲った半左衛門と、義親と最期を共にした半左衛門の出自を立証するのは無理だろう。
■執筆:小野未三
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【一 軍記類の中の土肥半左衛門】
軍記類に登場する半左衛門の記述を見ると、戦いの場での働きぶりは別として、その最期は悪者の印象の濃い話しで締め括られている。最大の見せ場となるのは最上家に大きな禍根を残した二大事件、即ち慶長八年(1603)の最上義光の長子の修理大夫義康、同十九年(1614)三男の清水大蔵義親への襲撃事件に、深く関与している姿であろう。
しかし、この二つの事件に関わったのは、いずれの出身の半左衛門なのか。この事件は共に最上家の継嗣問題に関わる権力争いであり、次男の家親の路線確立を目指すものであった。その中で一人は義康暗殺の実行犯、もう一人は義親支持派として行動している。
ここで、いくつかの軍記類から、半左衛門に関わる部分を要約してみよう。
(A)[最上記]
修理大夫殿生害之事
……山形の御城より直にいそがぬ旅におもむき給ふ、然に内々道にて御生害いたし候へと、戸井(土肥) 半左衛門に被仰付ける間、御通り候道筋に鉄砲を持、木蔭に隠相待居たるに是を間近所の若き者出合、半左衛門と一所に罷在けり……二つ玉にて御へその下を後へ打抜ける間、則真逆に落給ひ……多勢に無勢の事なれば、壱人も不残討れけり、然に彼半左衛門幾程なく、大坂へ手入したる義あらはれ、一門悉御成敗有ければ、義康公の御罸眼前に当りけるとて、請人舌を振ひけり、
(筆者注、義光は義康を廃し、家督を次男の家親に決定する。そして義康を高野山へ追放を計る。その途中、半左衛門一派に襲われ、義康は命を落とした)
(B)[羽源記]
修理大夫殿生害并東海林三郎兵衛討死之事
……庄内大山の住人戸井半左衛門に仰付けられ……庄内丸岡という所にて左右の草原に兵を伏置きて、鉄砲認め其身は木陰に忍び居たるに……二つ玉を以て御臍の下を後へ打抜きければ、暫しもたまはず……さらば此半左衛門幾程なく、清水大蔵大輔殿逆乱の砌、大坂秀頼公へ内通の沙汰顕れ、一門郎従悉く家親公より誅罸せられけり、
(C)[奥羽軍談]
清水落城之事
……大蔵大夫心閑に自害ありければ……半左衛門は大長刀を以渡合しが、運の究にや庭の柳に腰を打当倒れける所を、寄手の者鑓を入突てければ、落重る首を取ける手負の者は有けれ共、名ある侍一人も死せずして、「各おめおめ討れしは、戸井が日比の嗜よりは口惜事」とぞ申ける、
(筆者注、清水義親は家親の追及が迫っていることを、「庄内丸岡の戸井半左衛門方よりこれ有て、密かに清水の城へ忍び落玉ふを」と、半左衛門などの手引きにより、山形城より清水へ落ちていったが、最後は追手を受け命を落とした)
(D)[奥羽永慶軍記]
義光病死 里見之徒党死罪事
……中にも土肥が討手として、奥村常陸介・小国日向守に山形の旗本三十六騎を差添たり、其頃半左衛門は古郷に在けるを、小国・奥村八百余人短兵急に攻懸たり、半左衛門尉か最期の体こそよかりけり、具足取て肩に掛上、帯よりなから我大坂一味にはあらねとも、かかる虚説に滅ん事、只是主君義安の御罰ならんと、大長刀を取て上下十四・五切て出けるか、土肥は鉄砲に胸板を打ぬかれ、其侭倒れて死す、(筆者注、この半左衛門の最期の様子は、後述する[土肥家記]に近似している。元和二年の出来事である)
以上、これら軍記類に見られるように、義康暗殺の実行犯として描かれ、その最期は大坂豊臣方に組みしたとされる清水義親に組み込まれ、世間から誹謗を受ける程に不様な最期を遂げたことになっている。しかし、いずれの軍記類の内容からも、同姓同名の二人の半左衛門が絡んでいたとは云っていない。
この半左衛門は、少なくとも慶長五年(1600)前後から同十九年(1614)の間、最上家に仕えた一人の半左衛門ということになる。しかし、実はそれが越中、増田のいずれの出身の半左衛門であったのか、それは越中土肥の由緒を伝える[土肥家記](延宝九年成立)から、一人の半左衛門の身元とその最期の様子が明確になってきた。軍記類からは、義康を襲った半左衛門と、義親と最期を共にした半左衛門の出自を立証するのは無理だろう。
■執筆:小野未三
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