ケニアのスラム街「キベラ」:生涯学習ノート
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ケニアのスラム街「キベラ」
映画「スラムドッグ&ミリオネア」がアカデミー賞を受賞したあとスラム街見物が流行るようになったとか
5年前にケニア旅行した際に、訪問先に首都ナイロビのスラム街キベラが入っていた
一緒に行った石原さんという女性が仙台でアマニ・ヤ・アフリカという団体を立ち上げてキベラにある小学校へ支援活動を行っていたからである
キベラは100年くらい前に鉄道敷設のためにかき集められた労働者がそのまま居ついて住み始めたことから始まったといわれている
現在キベラに暮らす人口は80万といわれ世界最大級のスラム街である
スラム街に入るにあたり忠告をうけた
カメラ、腕時計などの貴重品はバックのなかにしまうこと。バックは背負わないで胸で抱きながら離れずに集団で歩くこと、である
街は鉄道を挟んで茶色のトタン屋根の小さな小屋が延々と続く
道らしい道はなくごみと土埃と犬、ヤギ、鶏などの動物がうごめく
街の地面はすり鉢状になっていて、その底のところをすべての生活排水が流れている
すごい悪臭と汚水のなか、板切れを渡したところを道として伝い歩きをする。足を踏み外したら悲惨なめにあう
小屋は泥で塗りかためた豚小屋のような小さな小屋。そこに電気も水道もなしで家族がひしめくように暮らしているのである
写真は撮れなかったが見た情景は強烈な印象として残っている
スラム街に暮らす人々には就業できる仕事はなく、平均月収は日本円で約5000円程度
一日一食にありつくことが稀な状況のなかで、大家族を養いながら、流れついた同じ族の者の面倒は見るのだという
そんななかで子供たちは元気で明るい
「ハウドュユドウー」と叫びながら寄ってきて握手を求める
その目は不思議と輝いている
子供たちの親の大半はエイズに罹っており、子供たちも3,4割はエイズ患者
そんな子供たちのためにケニア在住の日本人が小学校を作った
その学校に石原さんたちは定期的に訪問をしながら支援活動を続けているのである
30分ほど歩いてようやく学校にたどりつく
学校といっても泥で固めた小屋である
この日は子供たちとの交流会があった
子供たちと日本から持参した剣玉や紙風船、縄跳びなどで遊んだ後演芸交換をした
われわれは「炭坑節」を踊り、子供たちは学校で習った歌と踊りを披露してくれた
子供とは思えないような素晴らしい歌と踊りであった。英語劇なども披露してくれた
先生たちはみなボランテアでやっていたので、先生たちの給料を生み出すための資金つくりをアマニ・ヤ・アフリカで始めている(民芸品を売ったお金を給料にあてるという)
この日はお客さんがくるというので月1回の給食日であった
普段は何もなしで空腹をかかえたままなのだそうだ
この日の献立はいつもの通りのカレーであったが肉は入っていなかった
それでもみんなうれしそうにして食べる
ストリートチルドレンがシンナーに走るのは、空腹を忘れるための行動とか
安っぽい同情心などは起きなかった
ガーンと頭を殴られたような衝撃を受けた
その衝撃はよくはわからないままであるが、生きる力のようなものとも受け取れたのだ
2009.06.11:Copyright (C)
年だからでなく年がいもなく
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5年前にケニア旅行した際に、訪問先に首都ナイロビのスラム街キベラが入っていた
一緒に行った石原さんという女性が仙台でアマニ・ヤ・アフリカという団体を立ち上げてキベラにある小学校へ支援活動を行っていたからである
キベラは100年くらい前に鉄道敷設のためにかき集められた労働者がそのまま居ついて住み始めたことから始まったといわれている
現在キベラに暮らす人口は80万といわれ世界最大級のスラム街である
スラム街に入るにあたり忠告をうけた
カメラ、腕時計などの貴重品はバックのなかにしまうこと。バックは背負わないで胸で抱きながら離れずに集団で歩くこと、である
街は鉄道を挟んで茶色のトタン屋根の小さな小屋が延々と続く
道らしい道はなくごみと土埃と犬、ヤギ、鶏などの動物がうごめく
街の地面はすり鉢状になっていて、その底のところをすべての生活排水が流れている
すごい悪臭と汚水のなか、板切れを渡したところを道として伝い歩きをする。足を踏み外したら悲惨なめにあう
小屋は泥で塗りかためた豚小屋のような小さな小屋。そこに電気も水道もなしで家族がひしめくように暮らしているのである
写真は撮れなかったが見た情景は強烈な印象として残っている
スラム街に暮らす人々には就業できる仕事はなく、平均月収は日本円で約5000円程度
一日一食にありつくことが稀な状況のなかで、大家族を養いながら、流れついた同じ族の者の面倒は見るのだという
そんななかで子供たちは元気で明るい
「ハウドュユドウー」と叫びながら寄ってきて握手を求める
その目は不思議と輝いている
子供たちの親の大半はエイズに罹っており、子供たちも3,4割はエイズ患者
そんな子供たちのためにケニア在住の日本人が小学校を作った
その学校に石原さんたちは定期的に訪問をしながら支援活動を続けているのである
30分ほど歩いてようやく学校にたどりつく
学校といっても泥で固めた小屋である
この日は子供たちとの交流会があった
子供たちと日本から持参した剣玉や紙風船、縄跳びなどで遊んだ後演芸交換をした
われわれは「炭坑節」を踊り、子供たちは学校で習った歌と踊りを披露してくれた
子供とは思えないような素晴らしい歌と踊りであった。英語劇なども披露してくれた
先生たちはみなボランテアでやっていたので、先生たちの給料を生み出すための資金つくりをアマニ・ヤ・アフリカで始めている(民芸品を売ったお金を給料にあてるという)
この日はお客さんがくるというので月1回の給食日であった
普段は何もなしで空腹をかかえたままなのだそうだ
この日の献立はいつもの通りのカレーであったが肉は入っていなかった
それでもみんなうれしそうにして食べる
ストリートチルドレンがシンナーに走るのは、空腹を忘れるための行動とか
安っぽい同情心などは起きなかった
ガーンと頭を殴られたような衝撃を受けた
その衝撃はよくはわからないままであるが、生きる力のようなものとも受け取れたのだ