三宝荒神神社例祭:長井市観光ポータルサイト|特派員
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三宝荒神神社例祭
4月9日土曜日強風も午後から少し収まってきた。
桜もチラホラ咲き出したので獅子宿から脱出出来ない。
祭り開始時間が迫りヤキモキしてきたが、詳しいオジサンこと渡邊氏に情報を流したので今頃
は向かっているはずだ。
神社に到着すると、子供達の獅子舞いは既に出発していた。
笛も太鼓も無いので心躍る獅子舞の気配がない。
追いかけると直ぐに発見し、同行させて戴く。
幼稚園年少位のキカナイお兄ちゃんがチョロチョロ道路を渡り傍若無人に振る舞うので
若いお母さんがイライラし始めてきた。叱咤激励どころではない。
我が家では娘三人なので、こういう場面に対峙した経験が無いので微笑ましいのだがハラハラ
して獅子舞どころではない。
こちらの獅子舞の型は単純だ。一軒一軒訪門し玄関先で「獅子舞が来ました〜」と子供達が叫
び、ご祝儀を改修して回ると行った形である。子供が多かった頃は、幕も大きく中に10人位
入り獅子頭を触る事も出来なかったそうだ。
獅子舞から神社に戻ると、渡邊氏が拝殿にまさに張り付いて十畳ほどの拝殿で八名程の氏子の
方々と歓談していた。
別当の大學院の住職も帰られ獅子舞いの到着を待つまでの祝宴である。
獅子舞いは二時に出発し四時に戻って来る予定で、長手地区と川西地区を周る。以前長手は弓
町と呼ばれたと古風な名前だったのに勿体ないと感じたが何か理由があるのだろう。
神社の拝殿は以前湯殿山信仰の行屋だったという。部屋の板壁には何やら墨書きが薄ら見え
る。赤外線カメラで撮影するとハッキリ見えてきた。
ここに一週間籠もり精進固めをするそうなので、その時の落書きだろうか?
話を聞いているうちに獅子舞の子供達が戻って来た。オリエンテーリングのゴールのような
晴れやかな顔で戻って来る。子供達は、お駄賃を戴いて解散である。
さて、待ちに待った獅子頭検分である。
まず獅子頭の裏に彫り込んだ記名があった。
「村上大町 工治平 」村上は新潟県の村上市 大町は市役所のある町で周りには
大工町、細工町、長井町とか獅子頭にまつわるような町名が多い。
拡大して調べると墨書きだったものを、後で誰かが彫り込んだと思われる。
獅子頭は写真の様に赤い獅子頭で鼻と目が異常に近い表情だ。タテガミは無く薄く彫り込まれ
軽量化重視されている。軸の中央部分が細くなっている事に気づく。
目には銅板が嵌め込まれ、耳も独特な形で縁に黒い漆で特徴的な模様が見られた。
獅子頭を被り、歯で噛んで固定して舞う太々神楽の獅子頭だ。
聞いてみるとやはり以前は歯で軸を噛んでいたという。
赤外線カメラで見てみると舌の両側にうっすら文字が見える様な気がするが定かでない。
笛も以前は存在していて吹かないまま持たされたという話も出てきた。
祭りの詳しい資料を見て貰いたいと真っ黒い箱を見せてもらった。
中には、昭和から大正時代までの祭りの金銭明細帳が入っていた。
箱の蓋を渡邊氏はマジマジと凝視し始めた。なんと超能力で解読し始めたのだ!!
普通の人には見えない文字を長年の修行で得た霊力だろうか?
「明治三十年 三寶荒神神社祭禮付帳簿 坂野勇太郎」
赤外線カメラで撮影してみたが大体合っているので再度驚く!
さらに、帳簿には昭和22年まで神楽を依頼して代金を支払った記録があった。
また、太鼓の損料とあり借用した記録もあるので例祭で神楽の獅子舞いがあったのだ。
昭和23年からは、理由は不明だが、その項目が無くなりプロの神楽師達から、途絶えた
か地域の人に変わったのかも知れない。丁度戦争の終盤の頃で情勢も混乱していたのだろう。
その後、子供の獅子舞いとして復活し現在に至ったのだろうと推測する。
獅子頭の作者に付いては、別当の大學院の村上からの由来も関係している話もあり
これから調査を行う。
村上の匠と言えば有磯周斎が有名で、白鷹の瑞龍院の彫刻等手掛けている記録があり
こちらも調査中だ。
謎が謎を呼びまったくキリが無い!
追記
昭和22年で途絶えた神楽は、ここから2.5km程北西の上新田にあった熱田系の獅子神楽があ
ったようだ。2人立ちの獅子舞で「獅子舞」「あほう舞」「ひょっとこ」「やたて万歳」
「和唐内」などの演目があった。上新田に皇大神社があり「村の若者組が戸毎に回って厄を
払い、金銭を頂戴する。二人で獅子を被り、家中を歩き回り、笛、太鼓、歌を歌い家中すみず
みまで歩き回り、病気、不幸、などすべての厄を払う。大正年間(1912〜26)、一戸一銭、
五銭、十銭位もらったという」とある。
江戸中期から、村に来る太神楽の芸を習い覚えた村の若者達が、神社の祭礼やお盆に獅子舞を
奉納してきた。だが、昭和になると廃れ、代わりに職業として神楽舞を演じるものが村々を廻るようになった。米沢地方ではこれらの者を「神楽ぶち」と言った。
上新田には昭和初期、一人の「神楽ぶち」が住みつき、西光寺の境内で年一回、市外から「神楽ぶち」たちが来て神楽や曲芸の公演を行っていた。しかし、戦後になって数年を経ずして廃れたという。
山形民俗第29号 置賜の「獅子神楽とその絵馬について」渡邊敏和氏著
この話から三宝荒神神社に呼ばれた神楽は上新田の獅子神楽だったのではないかと考える。
ちょっと謎は解決した。
2016.04.10:Copyright (C)
獅子宿燻亭5
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祭り開始時間が迫りヤキモキしてきたが、詳しいオジサンこと渡邊氏に情報を流したので今頃
は向かっているはずだ。
神社に到着すると、子供達の獅子舞いは既に出発していた。
笛も太鼓も無いので心躍る獅子舞の気配がない。
追いかけると直ぐに発見し、同行させて戴く。
幼稚園年少位のキカナイお兄ちゃんがチョロチョロ道路を渡り傍若無人に振る舞うので
若いお母さんがイライラし始めてきた。叱咤激励どころではない。
我が家では娘三人なので、こういう場面に対峙した経験が無いので微笑ましいのだがハラハラ
して獅子舞どころではない。
こちらの獅子舞の型は単純だ。一軒一軒訪門し玄関先で「獅子舞が来ました〜」と子供達が叫
び、ご祝儀を改修して回ると行った形である。子供が多かった頃は、幕も大きく中に10人位
入り獅子頭を触る事も出来なかったそうだ。
獅子舞から神社に戻ると、渡邊氏が拝殿にまさに張り付いて十畳ほどの拝殿で八名程の氏子の
方々と歓談していた。
別当の大學院の住職も帰られ獅子舞いの到着を待つまでの祝宴である。
獅子舞いは二時に出発し四時に戻って来る予定で、長手地区と川西地区を周る。以前長手は弓
町と呼ばれたと古風な名前だったのに勿体ないと感じたが何か理由があるのだろう。
神社の拝殿は以前湯殿山信仰の行屋だったという。部屋の板壁には何やら墨書きが薄ら見え
る。赤外線カメラで撮影するとハッキリ見えてきた。
ここに一週間籠もり精進固めをするそうなので、その時の落書きだろうか?
話を聞いているうちに獅子舞の子供達が戻って来た。オリエンテーリングのゴールのような
晴れやかな顔で戻って来る。子供達は、お駄賃を戴いて解散である。
さて、待ちに待った獅子頭検分である。
まず獅子頭の裏に彫り込んだ記名があった。
「村上大町 工治平 」村上は新潟県の村上市 大町は市役所のある町で周りには
大工町、細工町、長井町とか獅子頭にまつわるような町名が多い。
拡大して調べると墨書きだったものを、後で誰かが彫り込んだと思われる。
獅子頭は写真の様に赤い獅子頭で鼻と目が異常に近い表情だ。タテガミは無く薄く彫り込まれ
軽量化重視されている。軸の中央部分が細くなっている事に気づく。
目には銅板が嵌め込まれ、耳も独特な形で縁に黒い漆で特徴的な模様が見られた。
獅子頭を被り、歯で噛んで固定して舞う太々神楽の獅子頭だ。
聞いてみるとやはり以前は歯で軸を噛んでいたという。
赤外線カメラで見てみると舌の両側にうっすら文字が見える様な気がするが定かでない。
笛も以前は存在していて吹かないまま持たされたという話も出てきた。
祭りの詳しい資料を見て貰いたいと真っ黒い箱を見せてもらった。
中には、昭和から大正時代までの祭りの金銭明細帳が入っていた。
箱の蓋を渡邊氏はマジマジと凝視し始めた。なんと超能力で解読し始めたのだ!!
普通の人には見えない文字を長年の修行で得た霊力だろうか?
「明治三十年 三寶荒神神社祭禮付帳簿 坂野勇太郎」
赤外線カメラで撮影してみたが大体合っているので再度驚く!
さらに、帳簿には昭和22年まで神楽を依頼して代金を支払った記録があった。
また、太鼓の損料とあり借用した記録もあるので例祭で神楽の獅子舞いがあったのだ。
昭和23年からは、理由は不明だが、その項目が無くなりプロの神楽師達から、途絶えた
か地域の人に変わったのかも知れない。丁度戦争の終盤の頃で情勢も混乱していたのだろう。
その後、子供の獅子舞いとして復活し現在に至ったのだろうと推測する。
獅子頭の作者に付いては、別当の大學院の村上からの由来も関係している話もあり
これから調査を行う。
村上の匠と言えば有磯周斎が有名で、白鷹の瑞龍院の彫刻等手掛けている記録があり
こちらも調査中だ。
謎が謎を呼びまったくキリが無い!
追記
昭和22年で途絶えた神楽は、ここから2.5km程北西の上新田にあった熱田系の獅子神楽があ
ったようだ。2人立ちの獅子舞で「獅子舞」「あほう舞」「ひょっとこ」「やたて万歳」
「和唐内」などの演目があった。上新田に皇大神社があり「村の若者組が戸毎に回って厄を
払い、金銭を頂戴する。二人で獅子を被り、家中を歩き回り、笛、太鼓、歌を歌い家中すみず
みまで歩き回り、病気、不幸、などすべての厄を払う。大正年間(1912〜26)、一戸一銭、
五銭、十銭位もらったという」とある。
江戸中期から、村に来る太神楽の芸を習い覚えた村の若者達が、神社の祭礼やお盆に獅子舞を
奉納してきた。だが、昭和になると廃れ、代わりに職業として神楽舞を演じるものが村々を廻るようになった。米沢地方ではこれらの者を「神楽ぶち」と言った。
上新田には昭和初期、一人の「神楽ぶち」が住みつき、西光寺の境内で年一回、市外から「神楽ぶち」たちが来て神楽や曲芸の公演を行っていた。しかし、戦後になって数年を経ずして廃れたという。
山形民俗第29号 置賜の「獅子神楽とその絵馬について」渡邊敏和氏著
この話から三宝荒神神社に呼ばれた神楽は上新田の獅子神楽だったのではないかと考える。
ちょっと謎は解決した。