石田三成のご子孫の話、追加:長井市観光ポータルサイト|特派員
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慶長5年(1600年)関ヶ原の戦いで敗れた石田三成は41歳の生涯を閉じた。残された三成の
子供が直江兼続を頼って米沢に逃れ、證誠寺にかくまわれたと伝えられている。
その後、米沢に移り堀金姓を名乗りその後、子孫が石田姓を改名している。
ご住職から、現在の庫裏(くり 住職の住む住宅)の改造前の写真を拝見した。
慶長5年以来の建物だったかは不明だが、ご住職が子供の頃住んでいた建物で、隠し部屋や
逃避用の隠れ通路があったらしい。三成の子孫を匿うためだっただろうか?
ご住職幼少の頃、立ち入り禁止の開かずの間があり、こっそり入って激しく怒られたという
記憶を語ってくれた。
トップの写真は庫裏の解体中の際に出て来た、駕籠(かご)再現の写真である。
また、この寺は古くから旅の僧侶や修験の聖たちが立ち寄る寺院だった事もあったらしい。
その昔、各地の情報収集が容易だったのだろう。
四百年前の時代歴史ロマンが漂う寺院だった。
再び、ご住職のお話を聞きに訪れてみたい。
熊野神社のお札の版木